2005
08
株式会社サンレー

代表取締役社長

佐久間 庸和

「マナーは人間関係の潤滑油

 小笠原流礼法は最強の護身術」

 もうお気づきの人もいると思いますが、今年に入ってこの社長訓示は「太陽」「月」「松柏」「紫雲」「産霊」「気」など、サンレーをめぐる一連のキーワードを取り上げ、それらを掘り下げています。
 名エッセイストとしても知られた司馬遼太郎に「この国のかたち」という珠玉の随筆集がありますが、実はこの毎月の社長訓示は「この国のかたち」の一回分の文字数と偶然にもまったく同じです。そこで、この社長訓示の場を借りて、サンレーという「この会社のかたち」、そして冠婚葬祭業という「この仕事のかたち」を描き出してみたいと思ったのです。昨年は、哲学・芸術・宗教をはじめとしてさまざまな角度から「この仕事のかたち」をさぐってきたので、今年は「この会社のかたち」、つまりサンレーとは何かをテーマに、当社の企業文化を多様な視点からとらえていきましょう。
 そこで、どうしてもサンレーと切っても切り離せない最大級のキーワードがある。言わずと知れた「礼」です。社名の意味のひとつに「讃礼」すなわち礼の精神を讃えることがあるように、当社は何よりも「礼」を重んじる会社です。でも、礼には大きく分けて二つの意味があります。
 人の道としての礼と、作法としての礼です。モラルとしての礼と、マナーとしての礼と言ってもよい。そして前者を私は「大礼」と呼び、後者を「小礼」と呼んでいます。
 大礼については昨年来いろいろと触れてきましたが、最近、松下幸之助の著作を読んでいろいろと考えさせられました。私は日頃から「礼経一致」の精神を大事にしたいと考えていますが、「経営の神様」といわれた松下幸之助も「礼」を最重要視していました。松下思想の集大成である『人間を考える』という本において、人間は万物の王者であるという考え方が示されています。
 そして、礼は人間のみが行なう。動物には礼がない。そこに人間と動物の相違がある。これは言い換えれば、礼を知らないものは人間ではないということを意味します。人間らしい生活をしていくためには、お互いに礼を欠かさないようにすることが不可欠なのです。
 松下幸之助はさらに言います。礼とは、素直な心になって感謝と敬愛を表する態度である。商いや経営もまた人間の営みである以上、人間としての正しさに沿って行なわれるべきであることを忘れてはならない。
 礼は人の道であるとともに、商い、経営もまた礼の道に即していなければならないのです。礼の道に即して発展してこそ、真の発展と言うことができます。七十年間で実に七兆円の世界企業を築き上げ、ある意味で戦後最大の、というよりも近代日本で最大の経営者といえる松下幸之助が最も重んじていたものが人の道としての「礼」と知り、私は非常に感動するとともに、「礼経一致」に基づく当社の姿勢が間違っていないことを確信しました。
 当社の経営理念の大ミッションは「人間尊重」ですが、「人間尊重は礼から」と主張したのは、東洋思想の第一人者・安岡正篤でした。歴代の宰相、財界の指導者たちが競って師事した日本の先哲ですが、礼について、それは「吾によって汝を礼す。汝によって吾を礼す」からであると語っています。
 これはお互いがお辞儀をする説明として、もっとも簡にして要を得た言葉です。自分というものを通じて相手を、人を礼する、その人を通じて自分を礼する、お互いに相礼する、人間たる敬意を表し合うのです。
 「法華経」の中に「常不軽菩薩」というのがあります。この菩薩は常に人に会えば、必ず相手を礼拝しました。見ず知らずの人にも必ず礼拝をした。これほどの人間尊重はありません。現代の思想家や哲学者などはしきりに「人間尊重」などと言っていますが、あれは「権利尊重」以外の何ものでもなく、人間を一つも尊重しておらんと安岡正篤は喝破しました。  本当の人間尊重は礼をすることです。お互いに礼をする、すべてはそこから始まるのでなければなりません。お互いに狎れ、お互いに侮り、お互いに軽んじて、何が人間尊重でしょうか。そこで、人間尊重の精神を実際に「かたち」として表わすためにお辞儀や挨拶などの「小礼」、すなわちマナーとしての礼儀作法が必要となってきます。改めて述べるほどのことでもありませんが、礼儀作法は教育と同様に、身につけるものです。そして、いったん身に備わってしまうと、世の中の状況がどう変化しようと、俗にいう「身ひとつで逃げ出す」事態になったとしても、その人が生きている限り、生涯にわたって伴侶となってくれます。
 現代は高度情報社会ということで、ありとあらゆる情報や知識の洪水の中で私たちは暮らしていますが、そのほとんどは普遍性のない、時とともに消えてゆくものだと言えます。では、普遍性のある情報、知識とは一体何か。それも社会生活に役立つものとなると、結局は礼儀作法、行儀作法の類ということになるのではないでしょうか。礼儀作法なるものを知っているのと、知らないのとでは精神衛生上においても大いに違うのです。
 いま、私たちが一口に礼儀作法と呼んでいるものの多くは、武家礼法であった小笠原流礼法に大きく影響されています。よく言われる、日本人独特の淑やかさや謙虚さを含めての「礼儀正しい日本人」なる国際的評価の大半は、明治時代以降、変貌をとげつつも、一般家庭に普及した小笠原流礼法と、表千家流を主体とした茶道や、禅宗からの作法が、国民の遺伝子レベル的な部分にまで入り込んだ結果ではないかと推察されます。
 武家礼法を世に広めた小笠原家は、中世の村町時代以前から続く名家で、かつては信濃国の守護大名でした。室町末期頃になって、幾筋かの家系に分かれ、本家は明治維新まで豊前小倉十五万石の藩主でした。礼儀作法の研究で特に熱心だったのは京都にあった小笠原家だそうですが、この家系は明治になって断絶しました。今日、残っている正統な礼法こそ、小倉藩主の子孫で宗家を名乗られた三十二世・小笠原忠統氏の遺志を継いだ佐久間礼宗すなわち佐久間進会長が率いる実践礼道小笠原流なのです。佐久間会長は日本の儀礼文化の継承を目的に、社団法人・日本儀礼文化協会を一九七九年に設立し、小笠原忠統総裁のもと、自らは会長に就任しています。
 武家社会の礼法には他に伊勢流もあり、伊勢流は室外での所作、小笠原流は室内での所作が得意とされました。両流派とも、江戸時代には徳川将軍家の礼法指南役として存在しました。ですから、本来は将軍家の御留流(門外不出の流儀)でした。それが広く民間に拡がったのは、次のような理由によります。ある時代、家来筋に伝わっていたものが、更にその弟子へ伝わり、次第に拡がっていったのです。中でも、江戸中期頃、小笠原流礼法を身につけた御家人や浪人たちが、江戸市中で『小笠原流礼法指南』の看板を掲げ、生活のため、広く門人をとって教えたからです。
 現在では、書店の棚に並んでいるマナーブックや礼儀作法書のほとんどは、底本的な意味で小笠原流がベースとなっています。要するに、日本礼法の基本は小笠原流にあるのです。特に、冠婚葬祭の儀式礼法のほとんどすべては小笠原流に基づいていると言ってよいでしょう。
 なぜ、これほど広範囲に小笠原流が普及したのかといえば、礼儀作法というものを多方面から集大成したのがこの流派であるのと、競合する諸流派が廃れてしまい、ライバルがいなくなったからです。それとは別に、もうひとつ、明治時代の教育体系にも理由があります。明治政府が学校教育制度の充実を図った折、従来とかく軽視されがちだった女子教育にも力を注ぎました。女性の地位向上に一歩近づいたわけですが、それでも「男女七歳にして席を同じうせず」の思想が残っており、男女共学など思いも寄りませんでした。その当時、女性はすべからく、結婚して良妻賢母になることが理想とされたのです。
 となると、望ましい女性像に礼儀正しさが求められたのも必須です。授業科目として、ほとんどの女学校で、「行儀作法」や「礼儀作法」のカリキュラムが独立して設けられました。そして、その多くはわざわざ、「小笠原流による」と断っていました。おそらく、流派名を容れることで、それだけ権威が感じられ、信頼性も高まったのでしょう。以来、礼儀作法イコール小笠原流であるかのごとく流布し、昭和の時代まで続きました。
 戦前までは婦女の躾といえば、小笠原流でした。躾というと何か堅苦しい印象がありますが、躾という字は「身」と「美」に分かれます。つまり、躾とは人間の身体を美しく見せるための営みなのです。さらに礼儀作法とは、道徳プラス芸術であると言ってもよいでしょう。そして、それは非常に理にかなった合理的なものでもあるのです。  かつての日本女性の生活も理にかなっていました。日本の婦人は躾の通り、作法の通りに生活するならば、例えば食事をするにも、来客に応接するにも、それが同時に運動になっているのです。茶を持って客間に入るとき、まず坐って全身運動で襖を開けなければならない。そうして立ち上がって、入ってまた坐って、襖を閉める。また立って、それからまた坐って、お茶を出す。あるいは配膳をする。挨拶一つするにしても、手を出して握手のような局部運動をすればよいというわけにはいきません。両手をついて全身運動であるお辞儀をしなければならない。それで作法通りいったんお客に接しますと、これは相当の運動になるのです。
 それから日本人の坐法というものが非常に衛生的なもの、躾通りに坐るならば、これはそれだけで立派な健康法です。昔から「ただ坐れ」只管打坐、まあ坐れという言葉がありますが、非常に意味のあることなのです。
 帯というようなものも、通俗観念とは違います。専門家に言わせると、婦人に大切な腹部の温かさを保って、鳩尾のところから折れかがまないように、姿勢を崩さぬようにできているものなのです。だからなるべく正しく帯をしめて生活していれば、実は婦人として、そう特別な運動は必要ない。そういうことをいい加減に放置すると、どうしても現代の女性みたいに外に出て、フィットネスクラブなどに行かなくてはならなくなるのです。 裁縫をするのと坐禅をするのと一緒にする。運動と掃除を一つにする、というふうに、日本の古来の起居動作は統一的であり、裁縫は裁縫、応接は応接、運動は運動というふうに分ける西洋人とは大いに違っているのです。安岡正篤によれば、飲食、住居、立居振舞い、いずれを見ても東洋は統一的・含蓄的であり、西洋は非常に文化活動的であるといいます。このように、日本の礼儀作法は合理的であり、だから見た目にも美しいのです。
 また、礼儀作法とはなかなか便利なもので、たとえば仲の悪い者同士や、気まずい間柄の者でも、几帳面に礼儀作法を守って応対さえすれば、それだけでかなり救いになり、両者間が必要以上に険悪化するのを防げます。
 組織の中などで、仕事面での実績が乏しく、それゆえに評価が下がり気味な人であっても、礼儀作法を心得て実行すれば、それだけでもプラス評価となり、一定の線から落ちることを、少しでも喰い止めるのに役立ちます。
 逆に、仕事も出来ず、マナーもなってないとなれば、結果は考えるまでもありません。 こうした負の条件下における礼儀作法の効用もさることながら、王道とでもいうべき、マナーの最大の効果というものがあります。それは、相手に好印象を与えるという点です。特に初対面の相手には礼儀を守ることの効能は著しいと言えるでしょう。互いが好印象を受ければ、即、それがスムーズな人間関係にもつながっていくからです。
 つまりマナーや礼儀作法とは、人間社会における究極の円滑剤であり、対人関係での摩擦を防ぐ極上の潤滑油なのです。これは金銭で買えない人間界最高の知恵というべきものでしょう。そして一種の護身術でもある。
 PRIDEなどの総合格闘技を見ると、グレイシー柔術とかコマンドサンボとかムエタイとか世界には最強と称する護身術がたくさんある。しかし、もともと相手の敵意を誘わず、当然ながら戦いにならず、逆に好印象さえ与えてしまう礼儀作法の方がずっと上ではないでしょうか。小笠原流礼法こそは最強の護身術なのです。冠婚葬祭業に携わる私たちは、常に礼儀正しさを忘れないようにしたいですね。
 柔より 剣の道より 身を護る
       武士の術 礼法と呼ぶ (庸軒)