2006
03
株式会社サンレー

代表取締役社長

佐久間 庸和

「会社は誰のものか?

 そして、どこに向かうのか?」

 ライブドア事件について考えてみたいと思います。
 みなさんもご存じのように、証券取引法違反の疑いでライブドアの堀江貴文前社長と3人の前役員が東京地検に逮捕されました。逮捕のときは、それぞれ現役の社長であり、役員でした。新ビジネスの旗手ともてはやされた起業家のあっけない転落です。ライブドアは、M&Aと呼ばれる企業の合併・買収、投資組合、株式分割など新しい投資手法で、一時は株式時価総額が約一兆円に及ぶ企業グループになっていました。30代前半の若者が考え出したとは思えない、驚くべき錬金術と言えるでしょう。しかし、その錬金術の正体はインチキな「贋金づくり」であり、「改革の旗手」は単なるバブルの手品師でした。バベルの塔ならぬ現代のバブルの塔である六本木ヒルズから拘置所へ、堀江前社長の変転の激しさに衝撃を受けた人も多いでしょう。

  ホリエモン 大したもんとおだてられ
            着いた所は 監獄の門    庸軒

 ライブドア事件は、日本のみならず世界の経済に影響を与えた「戦後最大の詐欺事件」と言えますが、影響は経済だけにとどまりません。昨年夏の総選挙に刺客として立候補した堀江前社長を応援した自民党幹部の責任を問う声も強くなる一方です。  「下流社会」や「勝ち組」という言葉が流行し、派遣やパート労働が増え、ニートが深刻な問題になっています。その一方で、都心の地価や株価が急騰し、「ミニバブル」と呼ばれていました。勝ち組となるために株式による利殖をめざす若者も増えています。
 こうした環境の変化は日本人の勤労意識にも変化を与えていますが、ライブドアショックは株価だけでなく、堀江前社長が強調してきたカネがすべてという考え方にも冷水を浴びせました。彼は『稼ぐが勝ち』という書名の著書を出し、その中で「人の心はお金で買える」と記しています。普通こんなことは思っていたとしても、経営者なら絶対に言いません。
 その意味で、彼は筋金入りの拝金主義者であり、彼の率いるライブドアグループは拝金集団であったと言えます。

 ライブドア 人の心を金で買い
         向かう先には 監獄の扉    庸軒

  すべては、インターネットから始まりました。この新時代の情報メディアを「どこでもドア」に例えたのは、評論家の立花隆氏でした。言わずと知れた『ドラえもん』に出てくる夢のグッズですが、「どこでもドア」以外にも「タケコプター」や「透明マント」「スモールライト」など、ドラえもんがポケットから出す不思議グッズは1300以上にのぼるそうです。「こんなこといいな」「できたらいいな」の夢をかなえるアイテムばかりですが、むろん調子に乗ると落とし穴がひそんでいます。
 堀江前社長はその容貌がドラえもんに似ていることから「ホリエモン」と呼ばれました。そして、プロ野球の買収構想、ニッポン放送株大量取得、衆院選出馬、宇宙ビジネスへの進出など、ドラえもんのようにポケットから次々に目を引くアイテムを繰り出しました。しかし、それらも人々の夢を囲い込んでは株価を膨らます仕掛けだと聞けば、人々に夢を与えてきた本家のドラえもんは嘆くに違いありません。
 ライブドアという社名は明らかに「どこでもドア」を意識していると私は思います。「どこでもドア」に例えられたインターネットをビジネスとして出発したホリエモンらには、人々の夢と欲望が交錯する金融システムのそこかしこに、ヒョイと法やルールをすり抜ける魔法のドアが見えたのかもしれません。
「株式時価総額世界一の企業」がその夢だったといいます。でも、それも偽装や粉飾によって人々の夢を盗み取って膨らませたものだったならば、何と空しいことでしょう。近道と思って開いたドアが、まさか拘置所の扉「プリズンドア」に直結していたとは思いもよらなかったことでしょう。
 ホリエモンは大のマンガ好きで、六本木ヒルズの自宅マンションにもマンガ部屋があったそうです。彼は『ドラえもん』は読んでいたのでしょうか。それは知りませんが、同じ「ドラ」でも、彼が真に読むべきだったのはドラッカーの著書でした。昨年11月に逝去した世界最高の経営学者ピーター・ドラッカーの「人が主役」というマネジメント理論にふれていれば、ホリエモンも「人の心はお金で買える」などと馬鹿なことは思わず、プリズンドアを開くこともなかったでしょう。
 ドラッカーが否定した人物にはヒトラーや経済学者のケインズらがいますが、ドラッカーは世界的経営者として知られたジャック・ウエルチも批判しています。
 ウエルチといえば、名経営者中の名経営者とされています。しかもドラッカーを信奉していることで知られ、世界最大の企業の一つであるGE(ゼネラル・エレクトリック・カンパニー)のCEOに就任して最初に行なったことは、クレアモントにドラッカーを訪ねることでした。「選択と集中」をはじめとした数々のドラッカー理論を実践して大成功を収めました。いわば、ドラッカー理論の最大の実践者として知られているのです。ドラッカー自身もウエルチに目をかけ、惜しみなくアドバイスを送ってきました。
 20世紀末、ウエルチ率いるGEは絶好調でした。世界一の優良企業はGEであり、世界一の名経営者はウエルチだと賞賛の渦の中にありました。1998年度におけるGEの売上高は11兆円、純利益1兆円、そして後にホリエモンが最高の価値を置くことになる「株式時価総額」は、何と日本の年間税収に匹敵する50兆円という超巨大企業でした。ウエルチは、あたかも株主の代理人のようにGEを経営してきました。CEO在任18年間でGEの売上げを3.7倍、純利益を6倍、株価を毎年25%ずつ伸ばすという驚異的な業績をあげ、株主を大儲けさせて喜ばせてきました。
 ウエルチは1981年にCEOに就任しましたが、当時のGEは、日本の電気メーカーの攻勢の前に業績不振で喘いでいました。そこで彼はポートフォリオ戦略を打ち立て、事業の再編を図ったのです。儲かる部門と儲からない部門をはっきり分け、儲かる部門に徹底的に経営資源を投入しました。いわゆる「選択と集中」です。世界の市場で業界一位もしくは二位になれる部門だけを残して、それ以外の事業は切り捨てたり売却するというドラスティックなものでした。
 たしかにウエルチは、苦情処理センターをプロフィット・センター(儲ける部門)と位置づけ、人と人との関係を大切にしたワン・トゥ・ワン・マーケティングを始めるなど、大変なエネルギーとパワーを発揮して超巨大企業を現状変革型、市場創造型のフレキシブルな企業につくり変えました。しかし反面、彼のポートフォリオ戦略によって、黒字であるにもかかわらず何十万人もの従業員が解雇されてきたことも事実でした。
 ウエルチの成果が賞賛されるようになると、アメリカでは表面的なことだけ真似する経営者が続出しました。それまで安易にリストラを行なわなかったアメリカ社会の伝統が崩れ、多くの経営者が、黒字であるにもかかわらず株価をあげるために、雪崩のように従業員を解雇し始めたのです。モービルなど、最高の業績を発表した一週間後に、今度はいきなり一割の人員を減らすと発表しました。株主から賞賛されて株価は急上昇しましたが、社員はすっかりやる気を失いました。
 ウエルチの再建策が成功する以前は、必ずしも「会社は株主のものである」という考え方はアメリカ社会で一般的ではありませんでしたが、ウエルチの成功後は「会社は株主のもの」そして「結果がすべて」という論理がまかり通ることになりました。そして、一気に会社に対する忠誠心や、後輩を育てる伝統が失われてしまった。
 こんなことが、「人が主役」の経営を説くドラッカーの意にかなうはずがありません。さらにウエルチは、ストックオプションで莫大な利益を得たのみならず、日本円にして数十億円という非常識な額の退職金を手にして、GEを去って行ったのです。彼は、「人が主役」のマネジメントの実践者などではなく、単なる金の亡者だった。
 結局、ドラッカーは利用されたのです。晩年のドラッカーは、経営者としてのウエルチを厳しく批判しました。ドラッカーは金儲けの先生でも、株価をあげる指南役でもありません。彼がウエルチに本当に学んで欲しかったことは、「選択と集中」といった戦略などではなく、「従業員志向」や「社会への貢献」のような経営者としての根本的な考え方だったはずです。
 ウエルチは主に二つの大罪を犯しました。一つは「株式時価総額」なるものに過大な価値を持たせたこと。もう一つは、「会社は株主のもの」という考え方を定着させてしまったことです。ウエルチのこの二つの負の遺産が、ホリエモンという拝金モンスターを日本に誕生させたと私は思います。
 ホリエモンの夢が株式時価総額世界一の会社であったことは述べましたが、ニッポン放送の買収劇では「会社は株主のもの」という主張を展開しました。ライブドアvsフジテレビ、楽天vs TBS、そして村上ファンドなどの登場は、日本社会に「会社は誰のものか」という大きな論議を呼び起こしました。いわゆる「コーポレート・ガバナンス」の問題です。
 ある人は、会社はシェアホルダー(株主)のものであるという。また、ある人は、会社はステークホルダー(経営者、従業員、組合、顧客、取引銀行、取引先などの利害関係者)のためのものだという。
 ところが、ドラッカーの答えは、至って簡単です。すなわち、「会社は社会のもの」だというのです。したがって、社会の中に存在する社会のための機関として、富の増殖機能を伸ばしていくことがマネジメントの責任だというのです。具体的には、マーケティング、イノベーション、生産性、ヒト、モノ、カネの活用、そして社会的責任の遂行です。
 会社は、社会のものである。奇しくも、「会社」と「社会」という日本語を発明したのは同一人物で、何と、慶應義塾の創立者である福沢諭吉です。福沢はアメリカの 「Company」を見て、これは「Society」とほとんど同じだと気づき、「社会」という漢語をさかさまにして、「会社」という新しい単語を作ったのです。
 ドラッカーは「会社は社会のものである」という思想を見事に実現した人物として、福沢諭吉と同時代の渋澤栄一の名をあげています。500以上の企業を創立した「日本資本主義の父」ですが、あえて岩崎彌太郎の三菱のような財閥を作りませんでした。ちなみにドラッカーの最も尊敬する経営者がこの渋澤栄一です。
 彼は「論語と算盤」を旨とし、「礼」の重要性を説きました。「礼」は2500年前に孔子が再発見したコンセプトですが、ドラッカーが一番訴えたかったことも実は「礼」ではなかったかと最近思います。ホリエモンは結局、「礼」を失していた。それはTシャツにジーパンといったカジュアルな服装のことではなく、粉飾決算などによって、株主への礼、顧客への礼、従業員への礼、そして社会への礼を失したという意味です。すべては礼に始まり、礼に終わる。
 また、ライブドア事件は「虚業」と「実業」という問題をも呼び起こしました。ライブドアなる会社は、本業であるインターネット事業に占める割合が非常に低く、主に株の売買で成長した「虚業」でした。この「虚業」と「実業」という言葉の生みの親も、実は渋澤栄一です。ちなみに実業とは製造業ことで、サービス業は虚業だと誤解している人がいますが、これはまったく間違っています。サービス業は立派な実業です。渋澤は帝国ホテルも創立しています。実業家を代表する渋澤栄一が創設した東京証券取引所の信用を虚業家ホリエモンがぶち壊したことは歴史の皮肉でしたが、私は「礼経一致」という当社の企業理念の正しさをあらためて再認識しました。

  株式の時価総額に意味はなし
          社会こそは会社の主よ    庸軒