2006
08
株式会社サンレー
代表取締役社長
佐久間 庸和
「癒しとは、心を修繕すること
デラックスからリラックスへ!」
これまで、当社がめざす精神集約型産業にまつわる「思いやり」「感謝」「感動」のキーワードを取り上げてきましたが、今月は、いよいよ「癒し」です。
「癒し」という言葉は、もともとの震源地とでもいうべき医療や宗教といった分野をはるかに超えて、21世紀のキーワードとして広く認知されています。
ヒーリング・グッズが街に溢れ、ヒーリング・アートがギャラリーに並び、ヒーリング・ミュージックがCD店の一角を占拠する。「癒し」を謳うセミナーが隆盛を極め、「自分を癒す」というテーマを扱った書籍や雑誌もたくさん出ています。さらには、癒しのレストラン、癒しの温泉、癒しの水、癒しの時計、癒しのペンダントといった具合に、一時ほどの勢いはないにしろ、「癒し」や「ヒーリング」はブームとなっています。
現在、「LOHAS」(ロハス)という言葉が注目されています。「健康で持続可能なライフスタイル」を意味する英語の頭文字ですが、この流れの中でパワー・ヨガなども流行しており、「ロハス」のライフスタイルは明らかに「癒し」と深く関わっています。「癒し」という現象は古代のシャーマンやイエスの病気治しに見られるように人類史において文化を超え、古来からある表現ですが、それが日本で「癒し」という言葉として一般的になったのは、決してそんなに古いことではありません。
「癒し」や「ヒーリング」といった言葉がマスコミに登場したのは、1980年代の終わりからだとされています。朝日、毎日、読売の三大紙のデータベースを検索した結果、「癒し」という言葉がはじめて登場したのは、1988年後半のことで、毎日新聞に1件、読売新聞に3件あります。しかし、その後の89年、90年は年間2件、91年が6件、92年が7件、93年が11件と、件数はあまり増加していません。それが急増するのは九四年の後半からで、半年で32件に達し、95年前半は52件、後半は50件に達しています。これには、音楽との関わりで「ヒーリング」という言葉が流行になったことと、阪神・淡路大震災後に被災者の心のケアという意味で「癒し」の言葉が頻繁に使われたことも、大きく影響しているようです。
現在のように「癒し」が大きな関心を集めるようになった背景には、心身医学および日本におけるその父である故・池見酉次郎氏の存在を忘れることはできません。
池見氏は、「癒し」のパイオニアとも呼ぶべき人でした。「健全なる精神は健全なる肉体に宿る」とはローマ以来の名言ですが、日常生活で実行している人は意外と少ないものです。それどころか、心と体のバランスが崩れ、病院通いする人も少なくありません。この点に着目して、フロイト理論から出発して半世紀も前から研究を続け、「心療内科」という分野を確立したのが、池見酉次郎氏だったのです。
池見氏は九州大学の名誉教授などを務められましたが、生前、佐久間会長とは大変親しい関係にありました。佐久間会長が初めて会ったときの池見氏は、北九州市立診療センターの前身である同市民病院長で、日本心身医学会の理事長でした。佐久間会長は一時期、この学会の理事長を引き受けています。
池見氏によれば、医療の最前線で長年活動してくると、本当に病気を治そうと思えば、日頃から心身ともに健康な生活をしないと治らないということがわかってくるそうです。病気を治すためには、その人の心が健康であり、幸せでないと、本当には治らないことがわかるというのです。池見氏は例として「現代人は、日常生活で次第に自分の感情を抑えるになった。自然な感情が抑圧され続けると、内臓をやられ、最悪の場合、癌につながることもある」ことを挙げています。
「今は物にばかりとらわれて、心の方は考えない。物は物、心は心と割り切っている」と池見氏はいつも嘆いていました。そのような社会風潮が家庭や社会の歯車、人間の心身バランスを狂わせる大きな要因と見ていたのです。物と心を二つに分ける考え方が、これまでの文明病の根源であり、これからは心と体を一体にした新しい文化が求められる時代になるという池見哲学に佐久間会長は大いに共鳴し、後の産霊気功が誕生する伏線にもなったのです。
かくいう私も、池見酉次郎氏の影響を受け、かなり早くから「癒し」という問題について考えていました。特にリゾート・プランナーをやっていた頃は、毎日、考えていました。もっとも、当時は「癒し」や「ヒーリング」といった言葉が一般的ではなかったため、私は「ゆとり」や「リラックス」という言葉をよく使っていました。ハート化社会においては、「デラックスからリラックスへ」の転換が求められることを説き、そのことを『ゆとり発見』『リゾートの思想』という著書に書いたのです。
リゾートについて考える場合、その前に休日、つまり「ホリデー」の意味を知る必要があります。ホリデーという英語は、ユダヤ教の唯一神であるヤハウエが天地創造の七日目に定めた休息日であり、神聖なる日です。ホリデー(holiday)のホリ(holy)は「神聖な」という意味の他に、実はもうひとつ、ホール(whole)と同じで「完全な」という意味が語源にあります。すなわち、ホリデーは完全な日なのです。
ホリデーとは、多忙のあまり、社会的リズムに組み込まれた人間が「全体を取り戻す日」「人間らしさを取り戻す日」「心身ともに健康になる日」「幸福になるための日」です。つまり、自然の子である人間が本来のリズムを思い出し、「いのち」を回復する日なのです。そして、リゾートとは時間におけるホリデーを空間に置き換えたものだと言えます。「全体を取り戻す場所」「人間らしさを取り戻す場所」「心身ともに健康になるための場所」「幸福になるための場所」といったように、ホリデーの「日」を「場所」に換えると、リゾートの意味が浮き彫りになってきます。
リゾートはエントロピー(熱力第二法則)の問題ともつながってきます。社会が発展すれば、それに相対する負の現象も起きてきます。酸性雨、フロン、二酸化炭素、森林伐採などによるさまざまな地球環境の問題はその典型でしょう。東京ディズニーリゾートなどは、建設需要や雇用促進効果以上に、訪れる人に夢を与えたり、お客さんが自分らしさを取り戻すといった、東京の負の現象、つまり東京のエントロピーを小さくする役割を果たしています。全国各地のリゾートの役割も、まさにここにあります。
IT化、ハイテク化、国際化といった社会のトレンドは、人間という生物にとってはストレス化に他なりません。リゾートは、そのストレスというエントロピーを消さなくてはならないのです。
では、人間が最もストレスを感じる時とは、どんな時でしょうか。それは、愛する肉親や親しい人が亡くなった時ではないでしょうか。まさに人間が最も「癒し」を必要とする非常事態であり、そのための「癒し」の装置として葬儀というものはあるのです。
一般に葬儀には、社会的な処理、遺体の処理、霊魂の処理、そして、悲しみの処理の四つの役割があるとされています。この中で、「癒し」と関わっているのは、悲しみの処理です。
悲しみの処理とは、遺族に代表される生者のためのものです。残された人々の深い悲しみや愛惜の念を、どのように癒していくかという処理法のことです。通夜、告別式、その後の法要などの一連の行事が、遺族にあきらめと決別をもたらしてくれます。
愛する者を失った遺族の心は不安定に揺れ動いています。そこに儀式というしっかりした形のあるものを押し当て、「不安」をも癒します。親しい人間が消えていくことによる、これからの不安。残された者は、このような不安を抱えて数日間を過ごさなければなりません。心が動揺していて矛盾を抱えているとき、この心に儀式のようなきちんとまとまった「形」を与えないと、人間の心はいつまでたっても不安や執着を抱えることになります。この危険な時期を乗り越えるためには、動揺して不安を抱え込んでいる心にひとつの「形」を与えることが大事であり、ここに葬儀の最大の意味があると、宗教学者の中沢新一氏も語っています。
では、この「形」がどのようにできているかというと、昔の葬儀を見てもわかるように、死者がこの世から離れていくことをくっきりとした「ドラマ」にして見せることによって、動揺している人間の心に安定を呼び起こすのです。ドラマによって形が与えられると、心はその形に収まっていき、どんな悲しいことでも乗り越えていけます。つまり、「物語」というものがあれば、人間の心はある程度、安定するものなのです。逆にどんな物語にも収まらないような不安を抱えていると、心はいつもぐらぐらと揺れ動いて、愛する肉親の死をいつまでも引きずっていかなければなりません。
死者が遠くへ離れていくことをどうやって演出するかということが、葬儀の重要なポイントです。それをドラマ化して、物語とするために葬儀というものはあるのです。日本の葬儀の九割以上を占める仏式葬儀は、「成仏」という物語に支えられてきました。葬儀の癒しとは、すなわち物語の癒しなのです。
私はことあるごとに言うのですが、葬儀というものを人類が発明しなかったら、おそらく人類は発狂して、とうの昔に絶滅していたでしょう。愛する者が死ぬということは、世界の一部が欠けることです。欠けたままの不完全な世界に住み続けることは必ず精神の崩壊を招きます。不完全な世界に身を置くことは、人間の心身にものすごいストレスを与えるわけです。まさに、葬儀とは儀式の力で悲しみの時間を一時的に分断し、物語の癒しによって、不完全な世界を完全な状態に戻す営みに他なりません。だから葬儀というセレモニーには、時間におけるホリデーや空間におけるリゾートのごとき修復、つまり、リカバリーへのベクトルがあるわけです。
葬儀によって心にけじめをつけるとは、壊れた世界を修繕するということなのです。だから、ある意味で葬祭業は「心の大工」と言えるかもしれません。わが紫雲閣の優秀なスタッフを見ていていつも思うのですが、肉親を亡くされて泣いているような方と打ち合わせを進めているのは、本当にすごい。言葉ひとつとっても、デリケートな精神状態のお客様を相手に、まったくソツがない。これはもう、スキルというより人間性、思いやりの問題かもしれません。
この話法というか話し方というのは、これからの心の時代において、大変な財産になると私は思います。たとえば、病院で、医師が患者に癌の告知をするとき。本人に対してにしろ、家族に対してにしろ、現在の医師の物の言い方、口のきき方というのは、思いやりのかけらもないことが多いそうです。そんな重要なこと、ショックな事実を冷たく言い放たれれば、ただでさえ傷ついた心がさらに傷つきます。私たちが持っているデリケートな話法、思いやりの話法というものは、病院をはじめとして、さまざまな分野に活用できるのではないでしょうか。
人が最も心を痛め、癒しを必要とする場面は愛する者の葬儀です。そんなときに、お客様のお手伝いをさせていただく私たちは、究極の「癒しのプロフェッショナル」なのです。
そして、紫雲閣そのものが巨大な「癒し」の場とならなければなりません。私はかつて、リゾートをこの世の天国・極楽としての「理想土」と位置づけましたが、今ではサンレーグランドホテルをはじめとした高齢者複合施設、そして紫雲閣に代表される葬祭会館こそが、「癒し」の集約された「心のリゾート」であるべきだと考えています。なぜなら、実際に天国や極楽に一番近い場所だからです。
心の社会を迎え、ますますデラックスよりリラックスが必要とされていきます。これからも、多くのお客様の心を癒し、心の大工として世界の修繕に努めようではありませんか。
癒しとは 欠けた世界を 戻すため
こころ繕う 大工仕事よ 庸軒