2014
10
株式会社サンレー

代表取締役社長

佐久間庸和

「高まる終活ブーム

 人生を修める時代が来た!」

●終活ブームの中で


 このたび、新刊『決定版 終活入門』(実業之日本社)を上梓しました。
 いま、世の中は大変な「終活ブーム」です。
 多数の犠牲者を出した東日本大震災の後、老若男女を問わず、「生が永遠ではないこと」そして必ず訪れる「人生の終焉」というものを考える機会が増えたことが原因とされます。多くの高齢者の方々が、生前から葬儀や墓の準備をされています。
 また、「終活」をテーマにしたセミナーやシンポジウムも花ざかりで、わたしも何度も出演させていただきました。

 さらに、さまざまな雑誌が「終活」を特集しています。ついには日本初の終活専門誌「ソナエ」(産経新聞出版社)まで発刊され、多くの読者を得ています。わたしも同誌で「一条真也の老福論」という連載をスタートさせることになりました。
 その一方で、「終活なんておやめなさい」といった否定的な見方も出てきています。


●「終末」から「修生」へ


 このようなブームの中で、気になることもあります。「終活」という言葉に違和感を抱いている方が多いことです。特に「終」の字が気に入らないという方に何人も会いました。
 もともと「終活」という言葉は就職活動を意味する「就活」をもじったもので、「終末活動」の略語だとされています。ならば、わたしも「終末」という言葉には違和感を覚えてしまいます。死は終わりなどではなく、「命には続きがある」と信じているからです。
 そこで、わたしは「終末」の代わりに「修生」、「終活」の代わりに「修活」という言葉を提案しました。「修生」とは文字通り、「人生を修める」という意味です。
 よく考えれば、「就活」も「婚活」も広い意味での「修活」ではないだろうか。学生時代の自分を修めることが就活であり、独身時代の自分を修めることが婚活なのだ。そして、人生の集大成としての「修生活動」がある。


●「生の哲学」を求めて

 
 「明日ありと想うこころの仇桜 

        夜半に嵐の吹かぬものかは」


 これは浄土真宗の宗祖である親鸞が9歳で得度する前夜に詠んだ歌ですが、明日を保証されている人など誰もいないという事実を、わたしたちは忘れているようです。

 本当は、年老いたから「終活」するというよりも、年齢には関係なく、つねに「いま」「ここに」生を修めることを心がけたいものです。そんな想いを、わたしは「修生」という言葉で表現したいと思いました。
 死を見つめることは、生を輝かせること。『葉隠』の「武士道といふは死ぬ事と見付けたり」の一句は、じつは壮大な逆説ではないでしょうか。それは一般に誤解されているような、武士道とは死の道徳であるというような単純な意味ではありません。武士としての理想の生をいかにして実現するかを追求した「生の哲学」の箴言なのです。


●戦国武将の死生観に学ぶ


 わたしたちに「生の哲学」を最も感じさせるものこそ、わが国の戦国乱世に生きた武将たちの死生観です。特に、彼らが辞世の歌を詠む心境に「修生」を強く感じます。 


 「極楽も地獄も先は有明の 

          月の心に懸かる雲なし」


 これは、戦国武将の中でもわたしが最も尊敬する上杉謙信の辞世の歌です。その大意は「生まれかわる先が極楽でも地獄でもよい。今は夜明けに残る月のように、心は晴れ晴れしている」といったところでしょうか。
 ただ「生きる」のではなく「美しく生きる」ことにこだわり、「非道を知らず存ぜず」という信条を持っていた謙信の「生きざま」は彼の辞世にも強く反映しているようです。
 謙信が熱心な仏教信者であったことはあまりにも有名です。彼は「第一義」という言葉を座右の銘としましたが、これは仏教の開祖ブッダが悟った万物の真理のことを指します。


●人類最大のミステリー


 有史以来、「死」は、わたしたち人間にとって最重要テーマでしたし、それは現在も同じです。わたしたちは、どこから来て、どこに行くのか。そして、この世で、わたしたちは何をなし、どう生きるべきなのか。これ以上に重要な問題など存在しません。 
 なぜ、自分の愛する者が突如としてこの世界から消えるのか、そして、この自分さえ消えなければならないのか。これほど不条理で受け容れがたい話はありませんね。
 これまで数え切れないほど多くの宗教家や哲学者が「死」について考え、芸術家たちは死後の世界を表現してきました。医学や生理学を中心とする科学者たちも「死」の正体をつきとめようとして努力してきました。まさに「死」こそは人類最大のミステリーです。


●美しい日本人のために


 かつての日本は、たしかに美しい国でした。しかし、いまの日本人は「礼節」という美徳を置き去りにし、人間の尊厳や栄辱の何たるかも忘れているように思えてなりません。
 それは、戦後の日本人が「修業」「修養」「修身」「修学」という言葉で象徴される「修める」という覚悟を忘れてしまったからではないでしょうか。老いない人間、死なない人間はいません。死とは、人生を卒業することであり、葬儀とは「人生の卒業式」にほかなりません。
 老い支度、死に支度をして自らの人生を修める。この覚悟が人生をアートのように美しくするのではないでしょうか。冠婚葬祭互助会の会員様の多くは高齢者の方々です。ならば、互助会とは巨大な「修活クラブ」であると言えるかもしれません。
 ぜひ、多くの会員様が人生を修められるお手伝いをしたいものです。



 この生を修めんとして生くるなら 
        命かがやき すべて美し  庸軒