第5回
一条真也
「死者を忘れない」

 

 2015年は、日本にとって、さまざまな意味での節目の年だ。まず、3月20日に「地下鉄サリン事件」から20周年を迎えた。
 8月に入ると、6日には70回目の「広島原爆の日」、9日には同じく70回目の「長崎原爆の日」、続いて12日には「御巣鷹山の日航機墜落事故」から30周年を迎えた。
 そして15日には、70回目の「終戦の日」が訪れたが、この日、わたしは東京の靖国神社を参拝し、心からの祈りを捧げた。
「日本のいちばん長い日」といわれた昭和天皇の玉音放送がラジオで流れた日から70年。日本はどのように変貌しただろうか。細かい点を挙げればキリがないが、大きな変化として、死者を軽んじる国になったような気がしてならない。
 現代日本では通夜も告別式も行わずに遺体を火葬場に直行させて焼却する「直葬」が流行し、さらには遺体を焼却後、遺灰を持ち帰らずに捨ててしまう「0(ゼロ)葬」などというものまでが登場した。
 しかしながら、「直葬」や「0葬」がいかに危険な思想を孕んでいるかを知らなければならない。葬儀を行わずに遺体を焼却するという行為は「礼」すなわち「人間尊重」に最も反するものであり、ナチス・オウム・イスラム国の巨大な心の闇に通じている。
 20年前の一連のオウム真理教事件の後、日本人は一気に「宗教」を恐れるようになり、「葬儀」への関心も弱くなっていった。もともと「団塊の世代」の特色のひとつとして宗教嫌いが指摘されていたが、それが日本人全体に波及したように思う。
 そういった風潮に対して、わたしは、『永遠葬』(現代書林)を上梓した。葬儀によって、有限の存在である"人"は、無限の存在である"仏"となり、永遠の命を得る。これが「成仏」である。葬儀とは、じつは「死」のセレモニーではなく、「不死」のセレモニーなのである。そう、人は永遠に生きるために葬儀を行うのだ。「永遠」こそが葬儀の最大のコンセプトであり、わたしはそれを「0葬」に対抗する意味で「永遠葬」と名づけた。
 さらに、わたしは『唯葬論』(三五館)を上梓した。サブタイトルは「なぜ人間は死者を想うのか」である。わたしのこれまでの思索や活動の集大成となる本だ。
 わたしは、人類の文明も文化も、その発展の根底には「死者への想い」があったと考えている。約7万年前に、ネアンデルタール人が初めて仲間の遺体に花を捧げたとき、サルからヒトへと進化したとも思っている。
 その後、人類は死者への愛や恐れを表現し、喪失感を癒やすべく、宗教を生み出し、芸術作品をつくり、科学を発展させ、さまざまな発明を行った。つまり「死」ではなく「葬」こそ、われわれの営為のおおもとなのである。
 葬儀は人類の存在基盤だ。葬儀は、故人の魂を送ることはもちろんだが、残された人々の魂にもエネルギーを与えてくれる。もし葬儀が行われなければ、配偶者や子供、家族の死によって遺族の心には大きな穴が開き、おそらくは自殺の連鎖が起きたことだろう。
 葬儀という営みをやめれば、人が人でなくなる。葬儀というカタチは人類の滅亡を防ぐ知恵なのである。そして、死者を弔う行為は「人の道」そのものなのだ。
 わたしたちは、絶対に死者を忘れてはならない。