第14回
一条真也
「『唯葬論』という考え方」

 

 わたしは、葬儀は人類の存在基盤であると考えている。
 約7万年前に死者を埋葬したとされるネアンデルタール人たちは「他界」の観念を持っていたとされる。それは、「ホモ・サピエンス」と呼ばれるわたしたち現生人に受け継がれた。
「人類の歴史は墓場から始まった」という言葉を聞いたことがあるが、確かに埋葬という行為には人類の本質が隠されているといえる。それは、古代のピラミッドや古墳を見てもよく理解できるのではないだろうか。
 わたしは人類の文明も文化も、その発展の根底には「死者への想い」があったと考える。そして、埋葬は文化のシンボルであり、墓は文明のシンボルであると思えてならない。
 世の中には「唯物論」「唯心論」をはじめ、岸田秀氏が唱えた「唯幻論」、養老孟司氏が唱えた「唯脳論」などがあるが、わたしは「唯葬論」という考え方を提唱している。
 結局、「唯○論」というのは、すべて「世界をどう見るか」という世界観、「人間とは何か」という人間観に関わっている。
 わたしは、「ホモ・フューネラル」という言葉を提起しているのだが、この言葉に表現されるように人間とは「葬儀をするヒト」であり、人間のすべての営みは「葬」というコンセプトに集約されると考える。
「かたち」には「ちから」がある。わたしは冠婚葬祭会社を経営しているが、冠婚葬祭ほどすごいものはないと痛感することが多い。冠婚葬祭というものがなかったら、人類はとうの昔に滅亡していたのではないかとさえ思うのである。
 経営する冠婚葬祭会社の社名である「サンレー」には「産霊(むすび)」という意味がある。神道と関わりの深い言葉だが、新郎新婦というふたつの「いのち」の結びつきによって、子供という新しい「いのち」が生まれる。
「むすび」によって生まれるものこそ「むすこ」であり、「むすめ」である。わたしは、結婚式というセレモニーの存在によって人類は綿々と続いてきたと考えている。最期のセレモニーである葬儀も人類の存続に関わってきた。
 故人の魂を送ることはもちろんだが、残された人々の魂にもエネルギーを与える。もし葬儀を行わなければ、配偶者や子供、家族の死によって遺族の心には大きな穴があき、おそらくは自死の連鎖が起きたことだろう。
 葬儀という営みをやめれば、人が人でなくなる。葬儀というカタチは人類の滅亡を防ぐ知恵なのである。
 オウム真理教の尊師であった「麻原彰晃」こと松本智津夫が説法において好んで繰り返した言葉は、「人は死ぬ、必ず死ぬ、絶対死ぬ、死は避けられない」という文句であったという。
 死の事実を露骨に突きつけることによってオウムは多くの信者を獲得したが、結局は「人の死をどのように弔うか」という宗教の核心を衝くことはできなかったのである。
 いうまでもないが、人が死ぬのは当たり前の話だ。「必ず死ぬ」とか「絶対死ぬ」とか「死は避けられない」など、ことさら言う必要などないのである。
 もっとも重要なのは、人が死ぬことではなく、死者をどのように弔うかということだ。そう、問われるべきは「死」ではなく、「葬」なのである。