第3回
一条真也
「古代ローマから江戸へ」

 

 ローマで作家の塩野七生さんにお会いしました。塩野女史といえば、故・司馬遼太郎と並んで、その愛読者に政治家や経営者を多く持つ高名な作家です。現在はローマに住み、ローマ帝国興亡の1000年を描く「ローマ人の物語」にとりくんでおられます。その塩野さんから古代ローマについての興味深いお話をたっぷり伺いましたが、私にはどうしても尋ねたい質問が一つありました。
 それは、古代ローマ人たちの「老い」に対する考え方でした。前回、私は古代エジプトは好老社会、古代ギリシアは嫌老社会であったと述べました。しかし古代ローマについては、「嫌老」思想と「好老」思想がせめぎ合うようなところがあったのではないかと記しました。なぜなら、古代ローマを代表する哲学者キケロは『老年について』という「老い」を肯定する有名な本を書いているが、そこには「老い」に否定的な社会背景があったように思う。一方で、古代ローマの政治を実質上とりしきってきたのは長老たちからなる「元老院」であった。いったい、ローマ人たちは高齢者をどう見ていたのか、といった質問を塩野さんに投げかけました。
 その答は、こうです。17歳から45歳まで兵役が義務づけられていたローマ帝国においては、老人とは文字通り「健康な精神は健康な肉体に宿る」という理念を体現した人と見られていました。常に戦争の絶えなかったローマにおいて、数えきれないほどの戦闘をくぐり抜けて生き残ってきた老人たちは、それだけで強い肉体と意志と勇気と知恵をあわせ持った理想の人間として尊敬を受けていたというのです。そしてローマ人たちの多くは、45歳を過ぎてから政治家になって国家の要職についたり、商売をはじめたり、それぞれが豊かなグランドライフを送ったとのことでした。古代ローマは好老社会だったのです!その歴史的事実を塩野七生さんに教えていただいたわけですが、「パクス・ロマーナ」と呼ばれるローマの平和な時代は、高齢者にとっても生きがいの持てる時代だったわけです。
 さて、日本において「パクス・ロマーナ」のような平和な時代を求めるとすれば、何と言っても300年近く続いた江戸時代があげられます。そして江戸時代こそは、日本史に特筆すべき「老い」が価値を持った好老社会でした。儒教に基づく「敬老」「尊老」の精神が大きく花開いたのです。『日本書紀』によれば四世紀ごろに『論語』が伝えられ、その後、儒教は律令制のもと、大学寮で教えられた時期もありました。しかし本格的に日本に受け入れられたのは江戸時代、幕藩体制を支える思想的基盤に用いられるようになってからです。このとき、儒教は宗教としてではなく「儒学」という学問として受け入れられました。この儒学の考えが武士から町人にまで浸透し、江戸の人々は親孝行に努め、老人を大切にしました。徳川家康は江戸幕府を開く前に『論語』を愛読していたといいますが、75歳まで生きたことで知られています。今でいえば100歳ぐらいの長寿ですが、当時の平均寿命から考えると、老人として生きた時期がものすごく長かったわけです。ずっと老人であった家康は当然ながら「老い」というものに価値を置いたわけで、これがたとえば織田信長なら「老い」を重視などしなかったでしょう。
 その家康は幕府の組織をつくるにあたり、将軍に次ぐ要職を「大老」とし、その次を「老中」としました。家康がいかに「老」という文字を大事にしていたかがよくわかります。大老は絶大な権限をもっており、大老が一度決定したことは将軍といえども変えられなかったといいます。また、町人たちも古典落語でおなじみのように横丁の隠居を尊敬し、何かと知恵を借りました。江戸には、旦那たちが40代の半ばから隠居してコミュニティの中心となる文化があったのです。
 江戸という社会が「好老社会」であったのに対し、現代の日本は「好若社会」であると言えます。それはエネルギーやスピードや大きさに価値を置いた社会であり、つまり力や量の論理がまかりとおる社会であり、「若さ」の文化と言い換えることもできます。江戸にはエネルギーやスピードといった価値や、力や量といった論理はありませんでした。現代日本社会から見て、江戸という社会の特徴は「リサイクル」と「ボランティア」という二つの言葉で言い表わされます。その二つの言葉がいま、注目されているのは、日本がかつて江戸時代に持っていた循環型の暮らしや、相互扶助の豊かな伝統が失われたことを逆に示しているのです。江戸の暮らしは自然のリズムにそって流れていましたし、人もモノもゆっくりと動いていました。人がその一生を通じて蓄えた知恵や技能がいつまでも役に立ったのです。
 そうした社会には年寄りの役割というものが厳然としてありましたし、社会そのものも、年寄りのようにスローな動きをしていました。若さが物を言うスポーツや芸能などなく、今でいうところの情報量も、若者よりも老人の方が豊かでした。また固定した社会は競争社会ではなく、のんびりしていました。「先憂後楽」という語に集約されるように、江戸の人々にとっては、今日と違って人生の前半より後半に幸福がありました。若返りという思想はなかったのです。こうした「老い」が尊重された社会というのはまた、「若さ」をたたえる社会よりも、人にも自然にもやさしい社会であり、文化であったと言えるでしょう。
 江戸時代にはすぐれた思想家が多く出ましたが、文芸というスタイルで「老い」の思想を唱えたのが井原西鶴でした。西鶴は『日本永代蔵』で現代に通じる「詰まりたる世」を生きていくさまざまな人間の生きざまを描きましたが、ライフスタイルについて、「人は13歳迄は弁へなく、それより24、5までは親の指図を受け、その後は我と世を稼ぎ、45迄に一生の家を固め、遊楽する事に極まれり」と述べています。また、「若き時、心を砕き身を働き、老ひの楽しみ早く知るべし」と、ずばり「老いの楽しみ」こそ人生の目標であると言っています。ここには、今日のように幸福を人生の前半に置くのではなく、人生の後半に置くという生き方がはっきりと説かれているのです。
 このように、西洋のローマにしろ日本の江戸にしろ、「老い」に価値を置き、高齢者を大切にする社会ほど長生きするようです。