2004
03
株式会社サンレー

代表取締役社長

佐久間 庸和

21世紀は心の時代、

 お客様の心に響くサービスを!

 あいかわらずサンレーグランドホテルが各方面から大きな反響を呼んでいますが、よく聞かれるのは「心の時代を先取りしたビジネスですね」という声です。
 心の時代。私は2001年10月1日の社長就任スピーチでも「21世紀は心の時代」と述べました。直前にあの痛ましい9・11が起こったにもかかわらずです。その後、アメリカのイラク攻撃やSARS、狂牛病、鳥インフルエンザという暗いニュースが続き、人々の心も沈んでいるように見えますが、それでもやはり私は、21世紀は心の時代だと確信しています。
 心の時代は、哲学・芸術・宗教の時代であるとも言えるでしょう。バブル期の高級DCブランドやグルメ・ブームを経て、ついにはユニクロや吉野家の境地にまで行き着いた日本人。そんな衣食足りた日本人が礼節を知る時を迎え、そこで実在の問い合わせが重く人々にのしかかってきます。そして哲学・芸術・宗教が人間にとっての主要な関心事となってくるのです。
 そもそも哲学とは何でしょうか。また芸術とは、宗教とは。一言で語るならば、それらは人間が言葉を持ち、それを操り、意識を発生させ、抽象的思考力を持つようになったこと引き換えに得たものです。人間は言葉というものを所有することによって、現実の世界で見聞きしたり体験したことのない、もしくは現実の世界には存在しない抽象的イメージを、それぞれの意識のなかに形づくることができます。
 そして、そのイメージを具現化するために自らの肉体を用いて自然を操作することができるのです。まさしく、その能力を発揮することが文明でした。それによって人間はこの自然の上に、田や畑や建造物などの人工的世界を建設し、地球上で最も繁栄する生物となったのです。
 抽象的なイメージ形成力を持ち、自然を操作する力を持ち、自らの生存力を高めてきた人間ですが、その反面で言葉を持ったことにより大きな原罪、あるいは反対給付を背負うことになりました。すなわち意識を持ったことで、自分がこの宇宙で分離され、孤立した存在であることを知り、意識のなかに不安を宿してしまったのです。実在主義の哲学者たちは、それを「分離の不安」と言います。
 しかし、不安を抱えたままでは人間は生きにくいので、それを除去する努力をせざるを得ませんでした。この営みこそが文化の原点であり、それは大きく哲学・芸術・宗教と分類されています。したがって、文明と文化は相互補完の対概念であると言えます。
 「分離の不安」が言葉を宿すことによって生じたのであれば、その言葉を操り理性や知性からもう一度「感性」のレベルに状態を戻し、不安を昇華させようとする営み、それが芸術であるといえるでしょう。
 さらに、麻薬を麻薬で制するがごとくに、言葉で悩みが生じたのであれば、それを十分に使いこなすことによって真理を求め、悟りを開こうとしたのが哲学でした。
 そして宗教とは、その教義の解読とともに、祈り、瞑想、座禅などの行為を通して絶対者、神、仏、ブラフマンといったこの世の創造者であり支配者であろうと人間が考える依存に帰依し、悟ろうとしたり、心の安らぎを得ようとする営みでした。
 このように、哲学・芸術・宗教は同根であり、人間が言葉を操って抽象的イメージを形成し、文明を築いていく代償として「分離の不安」を宿したことへのリアクションだと言えるでしょう。インターネットに象徴されるように、人類はますます文明化していきます。その結果として、21世紀はまた哲学・芸術・宗教のルネッサンスの世紀となるのです。そして、私たちの事業である冠婚葬祭こそは、そのすべてに深く関わっているのです。
 冠婚葬祭は哲学産業です。哲学とはもともと「驚くこと」です。生きている不思議に驚き、赤の他人である男女が結婚する不思議に驚き、人が死んでいくという不思議に驚くのです。かつて、ソクラテスは「哲学は死の学び」と述べました。そういった意味からも、冠婚葬祭は哲学的な産業だと言えます。
 冠婚葬祭は芸術産業です。哲学が自分自身が「驚く」ことであるなら、芸術は他人を「驚かせる」ことです。ブライダルのテーブルコーディネートにしろ、葬祭の祭壇の飾りつけにしろ、「お客様をどのように驚かせてさしあげようか」といった発想が必要とされます。衣裳、生花、照明、音楽、写真、料理、演出......冠婚葬祭とは総合芸術そのものなのです。
 冠婚葬祭は宗教産業です。結婚式についても、葬儀についても、冠婚葬祭業に携わる者は、神様・仏様とお客様の仲介を果たすエージェントとしての役割を担っているのです。神聖な宗教産業に身を置く者として、私たちは何よりも神仏を敬い、「思いやり」と「感謝」の心を持たなければなりません。
 さらに冠婚葬祭は平和産業の最もたるものです。結婚式ほど平和な事件はありません。人と人とがいがみ合い、ケンカする。それは発展すれば抗争となり、ついには戦争へと至ってしまいます。その反対に、人と人とが認め合い、愛し合い、ともに人生を歩んでいくことを誓い合う。私は常々、「結婚は最高の平和である」と言っています。
 また、葬儀も平和産業です。私はまた常々「死は最大の平等である」とも言ってきました。どんな富豪でも貧乏人でも、健康な人でも病める人でも、万人に降り注ぐ太陽光線のごとく死だけは平等に訪れるのです。  このように冠婚葬祭ほど注目されるべき素晴らしい仕事はありません。まさに心の時代において最も輝きを放つ仕事、それが冠婚葬祭なのです。

  心の時代といえば、先日、福岡県篠栗にある南蔵院の林覚垂住職のお話を松柏園ホテルで伺いました。林住職は「心豊かに生きる」というテーマで年間250回もの講演を各地でされている方です。そのお話には考えさせられる点が多々ありましたが、特に次の二つのエピソードが印象に残りました。
 一つ目は、航空会社のスチュワーデスさんのお話です。ある国際線のスチュワーデスさんがフライトの際、ビジネスクラスで不思議な光景を目にしました。一人の中高年の紳士が席に座っていたのですが、隣の席には写真の額が立てかけてあったのです。聞いてみると、それは亡くなった奥さんの遺影でした。元気な頃、子供たちが無事に巣立ったら夫婦二人で海外旅行に出かける約束をしていた。しかし、やっとその約束が果たせる時が来たら、妻が病に倒れ、そのまま帰らぬ人となった。亡き妻との約束を果たすため一人で海外旅行に出かけたが、一生に一度のことだからずっと貯金してきたお金を使い、二人分のビジネスクラスの席を購入したとのことでした。
 そのお客さんは亡き奥さんのために、往復で70万円もの高額のチケットを買われたのです。本当に奥さんと二人で旅行する気なのです。話を聞いて胸が熱くなったスチュワーデスは、心からこのお客さんのために何かお役に立ちたいと思ったそうです。彼女はまず、遺影を見ながら微笑を浮かべて、
「きれいな奥様ですね」 と言いました。そしてその次に、
「奥様は何のお飲物がお好きだったでしょうか?」
お客さんは、こう答えました。
「家内はふだん酒などは飲みませんでしたが、もしこういう特別な時なら、きっと赤ワインか何かを飲んだと思います」
 それを聞いたスチュワーデスは、写真が立ててある席にテーブルをセットし、そこに赤ワインのグラスをそっと置きました。そしてその後の食事のコースも、すべてご主人と同じように一人前をお出ししました。
 それだけではありません。もっと何かこのお客さんのお役に立ちたいと強く思ったスチュワーデスは、他のスチュワーデスにも声をかけて、洗面室など機内にある花をすべて集めて、ささやかな花束を作りました。それに「客室乗務員一同からでございます。どうそ、奥様とすてきなご旅行をお続け下さい」と書いたカードを添えて、写真の前にその花束を置いたといいます。その紳士が心の底から喜んだことは言うまでもありません。
 もう一つのエピソードは、こうです。結婚20年目を迎えたご夫婦がいました。結婚記念日に20年前の結婚式のアルバムを二人でなつかしく眺めているうちに、当時参列してくれた方々全員に感謝の気持ちを綴った手紙を出そうということになりました。「私たち二人は20年前に結婚いたしましたが、ここまで無事に来ることができました。これも皆様のおかげです。本当にありがとうございます」というメッセージを送りたいというのです。感謝の心というものを持った素晴らしいご夫婦ですが、ふとご主人が奥さんにこう尋ねました。
「本当に多くの方々にお世話になったけど、お前はこの中で誰に一番感謝している?」
すると奥さんすかさず、こう答えました。
「それはもちろん、あなたのご両親ですよ」
自分の両親の名を挙げられて、ご主人は大変喜びました。でも、その時には両親ともに亡くなって、この世にはいませんでした。ご主人は言いました。
「今のお前の言葉を聞いたら、俺の両親はどんなに嬉しく思うだろう!届かなくてもいいから、ぜひお前の気持ちを手紙に書いておくれ」
 奥さんは実際に夫の両親に手紙を出し、切手を貼ってポストに投函しました。住所は二人が眠っている霊園の住所、宛名は二人の戒名を書いたそうです。そして、しばらく日数が経ってからお墓参りをしたとき、その夫婦はとても驚きました。なんと、両親のお墓に例の手紙が置かれていたのです。しかも雨にぬれてもいいように、しっかりとビニールに包んで。ご夫婦は霊園を管理している寺の社務所を訪れ、お礼を述べようとしました。しかし、そこで意外な事実を知ったのです。手紙をビニールにくるんでお墓まで届けたのは、寺ではなく郵便局の配達の人でした。その人は宛名を一見して事情を推察したのでした。感動したご夫婦は、このことを新聞に投稿したそうです。
 以上二つのエピソードは林住職よりお聞きしたものですが、もう一つ私が最近聞いた感動的な実話をぜひお伝えしたいと思います。
 小倉にある富野インターの近くで数ヵ月前、悲惨な交通事故がありました。帰校途中の小学五年生と二年生の二人が、何トンもある大型トラックに巻き込まれたのです。すぐ救急車で小文字病院に運び込まれましたが、二人とも即死状態でした。遺体はとても傷んでおり、足などもバラバラで、とても遺族には見せられないほどひどい状態だったそうです。  小文字病院のお医者さんたちは、手術室に入ったとたんに、二人はもう助からないことがわかりました。でも、手術室の外では、母親たちが涙を流しながら、
「先生、どうか、どうか、子どもの命を助けてください!」
と懇願しています。何人かいたお医者さんたちには、みんな同じ年頃の子がいました。それで誰が声をかけたわけでもないのに無言で遺体の縫合をはじめました。バラバラになった足を付けながら「足がなかったら、天国に行っても走れないし、歩けもしない。それでは。あまりにもかわいそうだ。」と思ったそうです。
 そうして、あうんの呼吸で何時間も縫合を続けました。命を助けるための手術ではありませんから、無償です。一銭にもなりません。それでも、お医者さんたちは一言も言わずに、黙々と二人の子供の体を元通りに修復したのです。
 私はこの話を小文字病院の外科部長である大森先生からお聞きし、本当に魂のふるえるような感動をおぼえました。実は亡くなったお子さんの葬儀は小倉紫雲閣で行われたのですが、病院の先生たちのやったことは完全に医療の範ちゅうを超えています。何の得にもなりません。でも、人間として心の命ずるままに行動したのです。
 これらのスチュワーデス、郵便局員、医師のような方々を私は心のプロフェッショナルとして深く尊敬します。21世紀は、こういった心ある人々がたくさん活躍する、そして社会もそういった人々を認める、それでこそ「心の時代」ではないでしょうぁ。
 最後に、三つのエピソードは、夫婦の愛、お世話になった方々への感謝、そして故人を大切にする想いに関わっており、いずれも冠婚葬祭そのものに通じる話です。私たちは心の時代の主役として、「人間尊重」の精神を忘れずにお客様の心に響くサービスに努めようではありませんか。