2004
05
株式会社サンレー

代表取締役社長

佐久間 庸和

ARTの本質とは? 芸術産業としての冠婚葬祭業

 

 今日は芸術産業としての冠婚葬祭業について考えてみたいと思います。芸術にはさまざまなジャンルがありますが、「芸術」という言葉を聞いて、多くの人がまず連想するのは美術、それも絵画ではないでしょうか。どうも芸術家イコール画家というイメージが一般にはある。
 哲学とは自分が不思議と向かい合って驚くことであるなら、芸術とは表現をもって他人を驚かせること。これまで数え切れないほど多くの画家たちが、鑑賞者たちを驚かせてきました。人間が精神と肉体からなっているといわれるように、美術作品もテーマとその表現からなっているといわれることがあります。美術作品は表現だけが重要で、主題は副次的なものにすぎないという考え方もないわけではありません。事実、造形的な冒険の連続といってもよい20世紀美術においては、まず表現の可能性が追求されました。それに対して中世の写本や教会に描かれた壁画では、逆に主題の方が重要でした。
 最も重大な主題は、人生における四つの終事、つまり「四終」とされました。「四終」とは、死、最後の審判、天国、地獄をさすキリスト教での分類ですが、これについてはキリスト教に限らず、仏教でも死生、極楽浄土、地獄に関する伝教説話集や、その説話にもとづく絵画・彫刻が多く残されています。
 このように芸術と宗教は深く結びついています。偉大な芸術作品は宗教に最高の光を与えてくれるので、世界中の教会の礼拝堂をはじめ、神社、仏閣には絵画や彫刻を納めるのです。このことから教会、神社、仏閣を産業化したものといえる冠婚葬祭業が芸術産業であることは誰でもわかるでしょう。でも、あわてずにお待ち下さい。冠婚葬祭と芸術の間には、もっともっと深い意味があるのです。
 宗教のみならず、哲学も芸術と深く結びついています。絵画芸術は神話画、歴史画、宗教画、戦争画、風景画、静物画、人物画のすべてにおいて、哲学的思想を内包させています。一見して静物画と思われるセザンヌの『髑髏のある静物』にしても、不死の象徴である月桂冠や、生命の糧となる果実とともに髑髏が描かれています。それは生と死をもって遊んでいるのではなく、ヨーロッパの中世末期に流行した「メメント・モリ(死を想え)」という哲学的思考に立ち返る精神を要請しているのです。デューラーやホルバインと同じく、私たちは真摯な姿勢で芸術に心を向けさせなければなりません。また、プーサンのように神話世界を風景の中に取り込んで理想郷を美しく描いた「アルカディアの牧人たち」も死の謎に満ち溢れていますし、さらにはミケランジェロの「最後の審判」にしろボスの天国図にしろボッティチェルリの「ヴィーナスの誕生」や「春」にしろ、あらゆる名画は「死」の問題を主に扱っています。
 先に紹介した「四終」の特質は実在的「死」への思惟です。つまり、芸術の究極のテーマとは「死」なのです。もともと哲学・芸術・宗教は同根であり、その根は「死」という人類最大の問題にからみついています。また「哲学とは死の学び」の言葉のように、哲学が肉体という牢獄を越えて精神を鈍化させる営みであるなら、芸術と宗教にとっても同じことがいえます。そう、哲学・芸術・宗教のいずれもが、結局は「死」の問題をとらえて、心を鈍化させていく営みに他ならないのです。
 死の儀式を最初に行った者は、約十万年前に生きていたネアンデルタール人だとされています。この種族は発達した脳と言語をもっていたらしく、しかも、発掘された彼らの洞窟の中の遺骨の周囲に花の種子が発見されたので、死者たちに花をたむけたと考えられています。そして、約三万年前のクロマニヨン人のラスコー洞窟には壁画が発見されていることからもわかるように、人類と絵画表現の歴史は前期旧石器時代にはじまるのです。こうした洞窟壁画には多くの日常生活の中にみられる死が描かれており、クロマニヨン人たちの「死」に対する関心の高さがよくわかります。
 しかし、人類が最初に発明した芸術とは、絵画ではなく、おそらく音楽であったとされています。人類がこの地球上に誕生してから現在に至るまで、人間が追い求めてきたものは「死とはいったい何者か?」という自己の存在確認と意味の追求だったということもできます。そして、それは近代文明の発達とともに「私の幸福はいったい何か?」という自己の存在の目的を追求することに少しずつ変わっていったのです。
 有史以前の音楽には、豊かな意味性があったといいます。自分たちの集落の音楽と他の集落の音楽を区別して、戦闘のときにそれを自分たちの戦意を鼓舞するために使いました。あるいは、誕生の祝いの歌、死者を弔う歌というふうに、目的に合わせて音楽に意味をもたせていたのでしょう。
 人類最古の楽器が何で合ったのかということを調べていくと、それは人間の身体だったのではないかという説に行き着きます。なにしろ、身近に音を出すモノといえば、自分の身体が一番手っ取り早い。手を叩くだけで十分リズムは出せます。音の高さは変わりませんが、音の強弱は十分つく。これでもう立派な楽器です。実際、この「楽器」は、現在でもハンドクラップ(まさに手拍子です)としてフラメンコなどの民族音楽、ラテン音楽、そしてヒップホップ音楽などを中心に世界中の音楽の中で日常的に使われています。
 そして、人間の身体の中で手の次に使えるのは骨です。人間の身体はたくさんの堅い骨からできています。この堅い物質が最古の楽器として音楽に利用されたことは想像に難くありません。自分の手で胸を叩きながら、足を踏みならしながら、リズムを作り、歌を歌う。おそらく、こうしたことが人類にとっての音楽の発生の起源なのだと思われます。  そして、人類が最初に楽器を作ろうとした動機は、自然の音の模倣だったのではないでしょうか。赤ん坊が言葉を覚えるために周りの音をすべて模倣しようとするのと同様に、古代人たちが、波の音を、風の音を、小鳥たちの声を、その意味をさぐるために、あらゆる道具を使ってそれらを模倣しようとしたはずです。彼らは、自然界に聞こえてくるさまざまな音の「複雑さ」に何らかの「意味」を見出したのではないでしょうか。だからこそ、その「音」を作り出そうと、楽器を作り始めたのでしょう。
 楽器が自然界の音の模倣のために作られたとすれば、そうした楽器を使って作る音楽とは、まさしく、自然との同化、自然への畏敬、おして目に見えぬ神や霊への恐れだったに違いありません。そして、その楽器が現在のような西洋音楽のルーツのなかで高度に洗練された楽器へと変化しはじめたのは、まさしく人間が「文明」というものを作り出した時期からなのです。
 さて、音楽とは人間にとって何でしょうか?音楽は、ある意味で、においと同じような存在であるのかもしれません。人間がにおいを感じるということの最大の目的は「腐った」ものを感知すること、そして「敵」の匂いを感じ取ることです。「腐敗したもの=食べられないもの」を排除するためにも、「敵」の所在を感知するためにも「匂い」は最大の武器になる。つまり、人間が「生」を全うするために「匂い」という存在は絶対的に必要な条件であるにもかかわらず、ふだん人間はこの感覚の意味をすっかり忘れています。人間は「死」 を匂いから的確に察知するにもかかわらず。
 私たちは、音楽で感動したときに「心の琴線に触れた」というような言い方をします。それは、脳細胞のなかでβエンドルフィンだとかセロトニンなとかの私たちの心を興奮させる化学物質が出ていることのサインであるでしょうし、何よりもまず、私たちが「生きている」ということの確認をさせてくれるサインでもあります。私たちは「感動できる自分」「生きている自分」にまず感動するのです。「匂い」にもまったく同じことが言えます。「いい匂い」を嗅ぐとき、私たちの脳細胞には、快楽ホルモンであるβエンドルフィンが多量に発生します。逆に「腐った」モノの匂いを嗅ぐとき、脳細胞のなかではストレス・ホルモンのコルチゾールが発生するのです。
 音楽の感動や匂いの感動が、人間の五感のなかで何よりも直接「記憶」と結びついているのも、こうした今ある「生」と「死」の時空を容易に行き来させる何かを持っているからではないでしょうか。仏教において「生」と「死」を結ぶ匂いが線香の香りだとすれば、梵鐘の音は、こうした「生」と「死」を行き来するための音楽なのかもしれません。花の匂いに感動すること、音楽を聴いて感動すること、それはとりもなおさず、「生きている」ことの実感に他なりません。
 音楽の感動は、人間が自然とのバランスの中で生きるすべを、そして「生きていることの幸せ」を実感させてくれます。それは、個体としてのバランス、自然とのバランス、そして「異空間」とのバランスを保つための情報が「音楽」の中には入っているからです。
 人間には二つの「異空間」があります。一つは、人間にとって「ハレ」の舞台となる異次元の空間。もう一つは「ケガレ」の匂いのする、そこに行ってはいけない恐れを持つ空間。そして、そのどちらの空間へも、音楽は時間を超えて人間を導いていくことができるのです。二つの異空間とは、平たく言えば、天国と地獄です。ヘヴィ・メタリックなどのハードロックが聴く者の心を地獄へと誘うごとく、その反対にモーツァルトのように天国へと誘う音楽というものも存在します。「天国」と「地獄」は絵画における「四終」にも登場しますが、この二つほど文学や音楽のモチーフとなったものもありません。
 ここで一気に芸術の本質について考えてみたいと思いますが、私にとってそのヒントとなる言葉に「地球」を意味する「EARTH」があります。「EARTH」は三つに分解されます。「E」と「ART」と「H」です。その意味について考えると、おそらく「E」とは「EDEN」で、「H」は「HEAVEN」でしょう。エデンの園から天国へ、地上の楽園から天井の楽園へ、人間の魂を導く手段が「ART」なのだと思います。
 結婚式にしろ葬儀にしろ、冠婚葬祭とは人間の魂を天国に導くことに他なりません。そして、そこでは花というものが非常に重要になってきます。私はかつて『ロマンティック・デス』という死の本を書きましたが、そこで天国をかいま見たという人々の体感、つまり臨死体験をかなり詳しく調べてことがあります。多くの臨死体験者の報告では、彼らの大半が美しい花畑を見たと証言しています。光のトンネルを抜けた後、丘一面に咲き乱れる色とりどりの花に囲まれたというのです。
 アメリカのニュージャージー州のある若い男性は臨死体験の報告の中で、一言でいうと天国はこの世を完全な状態にしたところであるとして、次のように語っています。
 「天国のあらゆるものが、この世の最も美しいものの物質を備えていると思います。人間は神の姿を模しているという感じがありますが、私はさらに、この世はある意味で天国に似せてつくられたと言いたいのです。ですから、この世に咲いている美しい花は天国の完全な花を模しているわけです」
 もともと、エデンの園は天国に存在するガン・エデンという楽園を模して神が地球上につくったといいますが、いずれにしても天井に属する花の一部がこの地球上にも表出しているのだと私は思います。そうでないと、ただならぬ花の美しさはとても理解できません。
 そして冠婚葬祭のなかでも、葬儀というセレモニーこそは「ART」そのものだと言えます。なぜなら葬儀とは、人間の魂を天国に送る「送儀」であり、人間の魂を天井に引き上げるという芸術の本質をダイレクトに行なうものだからです。芸術とは、天国への送魂術なのです。
 人は芸術作品に触れて感動したとき、魂が天国に一瞬だけ飛ぶのです。絵画、彫刻、文学、映画、演劇、舞踊といった芸術の諸ジャンルは、中継地点を経て天国に導くという、いわば間接芸術です。ベートーヴェンは「音楽こそは直接芸術である」と述べましたが、私は送儀=葬儀こそが真の直接芸術となりうると確信しています。
 二月五日、サンレーグランドホテルのオープンイベントで「月への送魂」が行われましたが、これこそは葬儀が直接芸術であるということを高らかに宣言し、目に見える形で世に広く示した画期的な事件といえるでしょう。