2004
06
株式会社サンレー

代表取締役社長

佐久間 庸和

大いなる宗遊に向かって

 宗教産業としての冠婚葬祭業

 これまで哲学産業、芸術産業ときて、今月はいよいよ宗教産業としての冠婚葬祭業についてお話したいと思います。  宗教と冠婚葬祭との深い結びつきは、誰もが認めるところでしょう。結婚式には神主、神父、牧師が、葬儀には僧侶が私どもの施設に来られて厳粛なる儀式を行なう。冠婚葬祭業とは宗教代理店、つまり神仏のエージェントでもあるのです。
 オウム事件などは例外として、日本人は一般に「無宗教」だといわれます。イラクの地でアメリカに徹底抗戦するイスラム教スンニ派の人々には燃えるような宗教心が宿っていますが、日本人の心の底に横たわっているのはむしろゆるやかな宗教心ではないかと思います。だから排他的な態度で特定の宗教に属して厳しい修行をするというような人間をなんとなく警戒する。宗派とか、教義とか、修行とか、そういうものにあまり重きを置かない。もっとゆるやかで穏やかな、おっとりとした宗教心を好んできたように思います。
 『魂をデザインする』という本で対談させていただいたことのある山折哲雄氏は日本を代表する宗教学者ですが、面白い話を伺ったことがあります。山折氏の友人で臨済宗のお坊さんが檀家さんを連れてヨーロッパのある国に行った時のことです。たまたま入国手続きの際に、係官が「あなたの宗教は何ですか」と聞いてきました。臨済宗のお坊さんは当然ながら「仏教徒だ」と答えた。ところが、檀家総代さんが同じ質問をされると、こともあろうに「無宗教です」と答えてしまったのです!お寺のお坊さんと一緒に外国までやってきて、宗教は何かと聞かれて無宗教と答えてしまう。この不用意さというか、間抜けさというか、思わず笑いたくなる場面ですが、条件反射でそういう答えがすぐ出てしまうところがそもそも日本人なのかもしれません。
 無宗教という答えを聞いた係官は、「そういう人間は入国させるわけにはいかない」と言ったのだそうです。せっかくここまできて、住職と檀家が生き別れになったら大変だとおもったお坊さんは、瞬間的に言い訳を考えついた。「いま、彼は無宗教と言ったけれども、それは宗教がないという意味ではない。日本には無の宗教という宗教があるのだ」。それで何となくことなきをえて、入国できたというのです。冗談のような話ですが、お坊さんの言い訳として考えついた「無という宗教」は言い得て妙だと山折氏も感心されていました。
 なぜ日本人は人に問われると「無宗教」と答えてしまうのでしょうか。その原因については、大きく二つあります。  第一にそれは、明治以降の日本人の生き方に深い関係があります。明治国家は日本を近代化するために西洋文明を取り入れて、富国強兵・殖産興業という文明開化路線をまっすぐに突き進みました。ヨーロッパの近代文明はキリスト教と切っても切れない関係がありますから、その文明を取り入れる以上、キリスト教を受け入れるのは自然なことだったはずです。しかし、当時の指導者たちはキリスト教の根本的精神を受け入れることは回避しました。それにもかかわらず、キリスト教的なものの考え方は水が流れるように日本に入ってきた。ここで注意しなければならないのは、入ってきたのは「キリスト教の信仰」ではなく、「キリスト教的な考え方」だったという点です。
 そのキリスト教的なものの考え方のなかで、一番大きな問題が、宗教に対する考え方でした。どういうことかというと、キリスト教世界で「あなたの宗教は何ですか」と問うことは、キリスト教徒であるか、ユダヤ教徒であるかを問うことです。一神教世界ですから、キリスト教徒であると同時にユダヤ教徒であるということはあり得ない。ただ一つの宗教を主体的に選び取ることが一神教世界における宗教に対する基本的な態度であり、そこに一神教的な信仰の本当のあり方があります。つまり「あれか、これか」なのであって、どちらかを選択しなければならない。それが西洋近代における宗教に対する根本的な立場です。
 第二が、日本の伝統的な宗教、あるいは宗教心というのはそのような二者択一によるのではなく、「あれも、これも」という対し方だったということです。神と仏を同時に信仰してきたのが伝統的な日本人であり、正月には初詣に神社へお参りをし、人が亡くなって葬式をする時にはお寺でやる。家には神棚があり、仏壇が飾ってある。そもそも「宗教」とか「信仰」という言葉は日本にはなかったのであり、明治以前の日本人には意識もされなかったことでした。私たち日本人は、そういう生き方を神信心、仏信心で済ませてきたのです。
 しかし、明治になって「宗教」「信仰」という一神教の色で染め上げられた言葉をキリスト教から借りて使用するようになった。その結果、その時代の日本人はキリスト教でないにもかかわらず、自分自身の内面をキリスト教徒のまなざしで眺めようとした。つまり、本当の宗教というのは「あれか、これか」の宗教、一つを選びとる宗教だと考えるようになった。その結果、それまでの日本の伝統的な宗教、すなわち「あれも、これも」の宗教を、迷信といか俗信とかあるいは低次元の宗教と考えるようになってしまいました。
 といっても、むろん日本人は「あれも、これも」の信仰を捨てませんでした。家には神棚と仏壇を祀り、信者なくても平気でキリスト教会で結婚式をやってきたのです。「あれか、これか」と宗教の建前を受け入れながら、しかし他方で、その実態を覆いかくしてきたと言えるでしょう。ところがそのうちに、一つの信仰を主体的に選びとって自分の宗教にしてはいないという意識が強くなり、いつのまにか「そもそも自分には信仰がないのかもしれない」というふうに解釈して反省するようになり、「お前の宗教は何か」と尋ねられると、つい条件反射のように「無宗教である」とか「無神論者である」と答えるようになったのです。
 明治時代に、こういう日本人の生き方を批判した人が、内村鑑三です。彼は、日本人はヨーロッパ文明は受け入れたけれども、そのヨーロッパ文明の「魂」であるキリスト教を受け入れなかった、宗教抜きの文明だけを追求したとして日本人の生き方を批判しています。自体はまさに彼の批判通りに進行しました。その後、日本は文明のみを追求し、その基盤となる精神原理をなおざりにしたまま百年の歳月が流れ去ったからです。
 宗教抜きであったおかげで、日本は効率よく近代化を進め、経済大国になることに成功したということも言えます。では、なぜそれほどまでに明治の日本社会で宗教が力を持たず、社会が世俗化していたのか。時代はさかのぼりますが、それは織田信長がやった仕事の影響が非常に大きかったためです。
 宗教の面で、信長は二つの大仕事をやりました。一つは比叡山を焼き討ちにして、たくさんの僧侶を殺し、寺院と仏像を破壊したことです。それによって旧来の仏教が持っていた伝統的な権威を地上に引きずりおろした。というより、ほとんど息の根を止めたといえるでしょう。もう一つの大仕事は、日本各地で燃え盛っていた一向一揆の民衆エネルギーを一つ一つ潰していったことです。そして、最後に大阪の石山本願寺に結集した一揆勢力を正面から攻め、陥落に追い込んだ。まさに「魔王」ともいえる信長は民衆の宗教エネルギーをそこで根絶やしにしたのです。この二つの大仕事によって、日本社会は急速に世俗的な社会に変容していきました。
 山折氏は、日本人は「宗教嫌いのお墓好き」「信仰嫌いの遺骨好き」と半ば自嘲気味におっしゃっていましたが、そういったお墓信仰と遺骨信仰が一般的な日本人の信仰になるのは徳川時代以後のことです。その徳川時代に今日まで続く檀家制度ができあがりました。それが宗教の世俗化を促進した決定的な要因ですが、その地ならしをしたのが信長だった。
 さて、お墓信仰や遺骨信仰と言いましたが、それらは仏教ではなく、「招魂再生」を掲げる儒教の影響を強く受けています。儒教はよく、古臭い倫理道徳の話と誤解され、宗教ではないと思われているようです。しかし、本当は儒教ほど宗教らしい宗教はありません。宗教とは何か?私は、宗教はその人にとって必要ということがあって、はじめてその姿が現れるものだと思います。宗教とはそのように「自分にとって」という実在的なものであり、必要としない人には宗教は無縁です。まさに「馬の耳に念仏」といったところでしょう。
 それでは、いつどういうときに宗教を意識し、求め、必要とするのかということになります。もちろん人それぞれでしょうが、大半の人において宗教が意識にのぼってくる大きな機会があります。それは「死」です。もちろん死の前に「老い」や「病い」もあり、そのときに宗教を意識する場合も多いですが、自らの死を前にするとき、ほとんどの人は確実に宗教を意識するものではないでしょうか。
 宗教とは、「死ならび死後の説明者」に他なりません。ふだん死は不安であるに過ぎないが、それが近いという現実になると恐怖となる。とすれば、その恐怖や不安を取り除くために「死とは何か」と考えるのが人間だが、大半の人間の心弱く、ただうろたえるばかりである。そして行きつくところ、誰かにすがって説明を求めるようになる。
 それでは、いったい何が死について語りうるのでしょうか。人々は死から逃れるために医学にすがりつきます。でも、生物である人間は必ず死にます。医学は人が死ぬまでを説明することができても、死んだ後はまったく無力です。そのとき、死後について説明している、あるいは説明できるものは、ただ宗教だけなのです。  葬儀は、まさに死と死後についての説明を儀式という「かたち」にしたものですが、日本の葬儀には実は儒教の影響が色濃く見られます。『老福論』に詳しく書きましたが、お葬式のみならず、お墓もお盆の行事もすべてそうです。つまり、日本仏教のそのものが儒教の影響を強く受けているのです。
 神道や仏教のみならず、儒教までをもその体内に取り入れている日本人の精神風土を私は素晴らしいと思います。別に無宗教とか宗教の世俗化ということで卑屈になる必要はまったくない。一神教の世界では戦争が絶えませんが、日本人はあらゆる宗教を寛容に受け入れる。その広い心の源流をたどれば、はるか聖徳太子に行き着きます。憲法十七条には、神道も仏教も儒教も、そして道教の思想までもが全部込められている。「あれも、これも」が「ええとこ取り」に昇華されて、多様な宗教思想が仲良く共存しています。まさに「和をもって貴しとなす」という太子の思想の核をそこに見ることができるのです。
 また、江戸時代の石田梅岩は「石門心学」により商人道を説きましたが、そこでも神・仏・儒の三つをともにバックボーンとしています。ちなみに私は「平成心学」として心のマネジメントを追求してみたいと思っています。
 最後に冠婚葬祭を日本最大の宗教だと言う人がいます。宗教嫌いの人でも、信仰心のまったくない人でも、身内や知人の結婚式、お葬式には必ず出る。「冠婚葬祭」の四文字こそは、神道も仏教もキリスト教も超越した日本最大の宗教なのだというのです。でも私は、冠婚葬祭は「宗教」そのものというより「宗遊」とでも呼ぶべきものだと思っています。サンレーグランドホテル内にある「宗遊館」の「宗遊」です。
 宗教の「宗」という文字は「もとのもと」という意味で、私たち人間が言語で表現できるレベルを超えた世界です。いわば、宇宙の真理のようなものです。その「もとのもと」を具体的な言語とし、慣習として継承して人々に伝えることが「教え」なのです。だとすれば、明確な言語体系として固まっていない「もとのもと」の表現もありうるはずで、それが儀礼であり、広い意味での「遊び」だと言えます。「遊び」についての不朽の名著『ホモ・ルーデンス』を書いたホイジンガは、「遊びは文化よりも古い」と述べました。私は『ロマンティック・デス』のなかで「葬儀は遊びよりも古い」と記しました。実際、世界的に見ても相撲・競馬・オリンピックなどの来歴の古い「遊び」の起源はいずれも葬儀と深い関係があります。
 古代の日本では、天皇の葬儀に携わる人々を「遊部」と呼んでいました。冠婚葬祭と「遊び」とのつながりをこれほど明らかにする言葉はありません。  二十一世紀は「宗遊」の時代です。「宗遊」とは、「死」を見つめ、心を純化する営みである哲学・芸術・宗教が統合された大いなる世界です。そして、それは冠婚葬祭そのものなのです。