2004
07
株式会社サンレー

代表取締役社長

佐久間 庸和

結婚は最高の平和、死は最大の平等

 冠婚葬祭やめますか、人類やめますか?

 三ヵ月にわたって、哲学・芸術・宗教と冠婚葬祭の関わりについてお話してきました。冠婚葬祭の世界がいかに奥深いものかが少しはおわかりいただけたでしょうか。
 さらに深く「冠婚葬祭とは何か」について考えてみたいと思います。私ははっきり言って、冠婚葬祭ほど価値のある仕事は他にないと心の底から思っています。なぜなら、何よりもまず、万人にとっての大問題である「結婚」と「死」に関わる仕事だからです。
 「結婚は最高の平和である」。私は、いつもこの言葉を結婚する若い二人に贈っています。実際、結婚ほど平和な出来事はありません。最近よく思うのですが、「戦争」という言葉の反対語は「平和」ではなく、「結婚」ではないでしょうか。トルストイの名作『戦争と平和』の影響で「戦争」と「平和」がそれぞれ反対語であると思っている人がほとんどでしょう。でも、「平和」という語を『広辞苑』などの辞書で引くと、意味は「戦争がなくて世が安穏であること」となっています。平和とは戦争がない状態、つまり非戦状態のことなのです。でも、戦争というのは状態である前に、何よりもインパクトのある出来事です。単なる非戦状態である「平和」を「戦争」ほど強烈な出来事の反対概念に持ってくるのは、どうも弱い感があります。
 また、「結婚」の反対語は「離婚」と思われていますが、これも離婚というのは単に法的な夫婦関係が解消されただけのことです。「結婚」というのも戦争同様、非常にインパクトのある出来事です。戦争も結婚も共通しているのは、別にしなければしなくてもよいのに、浮き好んでわざわざ行なう点です。だから、戦争も結婚も「出来事」であり「事件」なわけです。もともと、結婚は男女の結びつきだけではありません。太陽と月の結婚、火と水の結婚、東の西の結婚など、神秘主義における大きなモチーフとなっています。結婚は、異なるものと結びつく途方もなく大きな力が働いているのです。それは、陰と陽を司る「宇宙の力」と呼ぶべきものです。同様に、戦争が起こるときにも、異なるものを破壊しようとする宇宙の力が働いています。つまり、「結婚」とは友好の王であり、「戦争」とは敵対の王なのです!
 人と人とがいがみ合う、それが発展すれば喧嘩になり、それぞれ仲間を集めて抗争となり、さらには9・11同時多発テロのような悲劇を引き起こし、最終的には戦争へと至ってしまいます。逆に、まったくの赤の他人同士であるにもかかわらず、人と人とが認め合い、愛し合い、ともに人生を歩んでいくことを誓い合う結婚とは究極の平和であるとは言えないでしょうか。結婚ほど平和な「出来事」はなく、「戦争」に対して唯一の反対概念になるのです。
 「死は最大の平等である」。この言葉も私はよく使います。この「社長訓示」でも何度か使ったように記憶しています。前に、「太陽と死」の話をしましたが、おぼえていますか? 箴言で知られるラ・ロシュフーコーが「太陽と死は直視することができない」と語ったように、太陽と死には「不可視性」という共通点がある。私はそれに加えて「平等性」という共通点があると思っています。
 太陽はあらゆる地上の存在に対して平等です。太陽光線は美人の顔にも降り注げば、犬の糞をも照らすのです。当社のサンレーという社名は、万人に対して平等に冠婚葬祭を提供したいという願いを込めて、太陽光線(Sun-ray)という意味を持っています。
 「死」も平等です。「生」は平等ではありません。生まれつき健康な人、ハンディキャップを持つ人、裕福な人、貧しい人......「生」は差別に満ちています。しかし、王様でも富豪でも庶民でも乞食でも、「死」だけは平等に訪れるのです。  また、世界中に数多くいる、死に臨んで奇跡的に命を取り戻した人々、すなわち臨死体験者たちは次のような共通の体験を報告しています。死んだときに自分と自分を取り巻く医師や看護婦の姿が上のほうから見えた。それからトンネルのようなものをくぐって行くと光の生命に出会い、花が咲き乱れている明るい場所が現れたりする。さらに先に死んでしまった親や恋人など、自分を愛してくれた人にめぐりあう。そして重大なことは、人生でおかした過ちを処罰されるような体験は少ないこと、息を吹き返してからは死に対して恐怖心を抱かなくなったということが主な内容です。
 そして、いずれの臨死体験者たちも、死んでいるあいだは非常に強い幸福感で包まれていたと報告しています。この強い幸福感は、心理学者マズローの唱える「至高体験」であり、宗教家およびロマン主義文学者たちの「神秘体験」、宇宙飛行士たちの「宇宙体験」にも通じるものです。
 いずれの体験においても、おそらく脳の中で幸福感をつくるとされるβエンドルフィンが大量に分泌されているのでしょう。臨死体験については、まぎれもない霊的な真実だという説と、死の苦痛から逃れるために脳が作り出した幻覚だという説があります。しかし、いずれの説が正しいにせよ、人が死ぬときに強烈な幸福感に包まれるということは間違いないわけです。しかも、どんな死に方をするにせよ、です。こんな平等が他にあるでしょうか!まさしく、死は最大の平等です。日本人は死ぬと「不幸があった」と馬鹿なことを言いますが、死んだ当人が幸福感に浸されているとしたら、こんなに愉快な話はありません。
 このように「死」が平等であるとしたら、死の儀礼である葬儀も平等に執り行われねばなりません。私はあの阪神大震災のときに、建築物の瓦礫の下に数多くの遺体が埋まっていると聞いて、本当に胸の痛む思いがしました。ご遺族の心中を思うと、たまらない気分になりました。前に交通事故で亡くなった小学生の遺体を無償で縫合手術したお医者さんの話をしましたが、本当に足がなくて天国に行っても歩けない、もっとひどいのは顔がなくて天国に行っても誰が誰だかわからない。そういう遺体がたくさん瓦礫の下に埋まっているというのが、阪神大震災直後の状況だったわけです。
 私はできることなら、自分がスーパーマンになって瓦礫からすべての遺体を取り出し、きれいな体に修復してからお弔いをしたいと本気で思いました。遺体も遺骨もないままの遺影だけの葬儀は本当につらいものがあります。
 それは、9・11同時多発テロのときも同じでした。あのときも、ワールド・トレード・センターの瓦礫の下に数千体の遺体が埋まっていたのです。私はあの惨状をCNNで見たときに、冠婚葬祭とは結局のところ人間を尊重することなのだと悟り、当社の大ミッションを「人間尊重」に決めたのでした。
 さらに考えるなら、ヒトは葬儀をされることによって初めて「人間」になるのではないでしょうか。ヒトは生物です。人間は社会的な存在です。葬儀に自分のゆかりのある人々が参列してくれて、その人たちから送ってもらう。それで初めて、故人は「人間」としてこの世から旅立っていけるのではないでしょうか。葬儀とは、人生の送別会なのです。
 それほど人間にとってこのうえなく重要な冠婚葬祭ですが、最近の風潮を見ると、その重要性をまったくわかってない人々が多く、悲しくなるというより、この国の将来を憂えてしまいます。
 たとえば、結婚式。あいかわらずハウスウエディングが人気を集める一方で、日本人の離婚件数はどんどん増えています。カジュアルに結婚して、カジュアルに別れる。結婚式をあげる二人の真の目的は、パーティーの時間のあいだだけ外国映画のようにスタイリッシュにふるまうことではなく、死が二人を分かつまでともに生きることのできる夫婦になることなのです。
 もともと日本の婚礼文化は武士道社会を支えた小笠原流の流れをくんで華を咲かせました。そして「義理」「見栄」「恥」が三位一体となって、日本の婚礼文化を完成させました。いくらヨーロッパのスタイルを志向しようが、日本人の結婚式は、義理と見栄と恥の文化なのです。家、親、祝儀、そして婚礼経済を支えるものこそ、この義理と見栄と恥であり、司馬遼太郎などは特に「恥」に日本文化の本質を見出します。
 司馬遼太郎によれば「人に笑われまい」という日本人の「恥の文化」は古く、このおかげで千年以上も社会が保たれてきたといいます。借金の証文に、いついつに返済すると書き、「もし、このことに違えば、どうぞお笑いください」と書くのが、明治以前の証文の型だったのです。
 今でも日本の結婚式に「恥の文化」は生きています。ホテルの宿泊は個人消費ですが、披露宴は個人消費のようで実はそうではありません。親戚や上司やお世話になった方々をお招きして、ふるまう。しかも純粋に「ごちそう」するわけでもなく、ご祝儀を頂戴して両家で宴を買うわけです。安物買いを他人様に笑われては、両家は面子をつぶします。お金をたくさんいただいておきながら何もふるまわないのでは「ネコババ」と言われても仕方ありません。「どうぞお笑い下さい」では済みません。「恥の文化」とは婚礼そのものだと言えます。
 昨今の風潮でいくと、結納もムダ、披露宴もムダ、記念写真や引出物は無意味、お色直しなんて時代遅れ。一世一代の晴れの日に日本人の民族衣装である和装を着ずウエディングドレスだけでいいと考える花嫁さんが増えています。「媒酌人」や「新郎新婦」といった言葉さえ、だんだん陳腐になってくる。「個」を尊重するあまり、「家」を無視し、そのうち家族制度まで否定しかねません。
 私がもっとも憂慮しているのは、ジミ婚とか海外婚とかそんなレベルを超えて、役所に婚姻届を提出するだけのカップルが出てきていることです。結婚式や披露宴など、はじめからやる気はまったくない。彼らの考えはおそらくこうでしょう。「結婚式なんて金のムダ。そんな金があったら、新生活の費用にした方がよっぽど道理的で賢いじゃん」。  しかし、そういう考え方をする者が親が亡くなったとき、次のような考えに至ることが目に見えるようで怖いのです。「葬式出すなんて金のムダ。役所に死亡届だけ出して、その金は生きている人間が使ったほうがよっぽど合理的で賢いじゃん」。
 約十万年前にネアンデルタール人が死者を埋葬した瞬間、サルがヒトになったともいわれ、葬儀は人間の存在基盤とも呼ぶべき文化です。ある意味で結婚式よりはるかに重要です。また孟子は「人生の最大事は親の葬礼なり」と述べ、共産主義の生みの親であるマルクスにもっとも影響を与えた哲学者のヘーゲルも「親の埋葬倫理」を唱えています。あらゆる宗教や哲学が肉親を弔うことの重要性を説き、古今東西、親が死んで、葬式を出そうと思えば出せるのに金がもったいないからといって出さなかった民族も国家もまったく存在しません。そんな前代未聞の存在に日本人がなってしまったら、これはもう世界の恥どころではなく、人類史上の恥です。
 だいたい、結婚式も葬式もあげなくなったら人間終わりだと私は思います。ましてや冠婚葬祭を否定する民族など、もう滅びてしまったほうがいいでしょう。薬物禁止キャンペーンのコピー。「覚せい剤やめますか、それとも人間やめますか」にならえば「冠婚葬祭やめますか、それとも人間やめますか」というところです。私は自分の職業や立場に関係なく、本気でそう思います。