2004
12
株式会社サンレー

代表取締役社長

佐久間 庸和

トップアスリートに学び、コーチングの意味を知る

 

 今年も残り少なくなりました。マスコミが「今年の十大ニュース」を発表する時期ですが、地震、台風、人質殺害など暗いニュースが多いようです。そのなかでも明るいニュースといえば、アテネ五輪での日本人選手の大活躍や大リーグでのイチローによる新記録達成に尽きるのではないでしょうか。
 佐久間会長は「石原慎太郎都知事を囲む創業経営者の会」のメンバーですが、あるとき、次のような質問を都知事に投げかけました。
「石原知事のような方は、いったいどういう人物に興味があるのですか?」それに対する答えは、歴史上の英雄や大政治家や文豪などではなく、意外なものでした。石原知事は「高橋尚子のようなマラソン選手ですね」とためらわずに答えたのです。アマ・プロ問わず超一流のスポーツ選手のことをトップアスリートと呼びますが、シドニー五輪女子マラソンの金メダリストである高橋選手ももちろんトップアスリートの一人です。文学と政治の両方で道を極め、現代の日本における最高の有名人ともいえる石原慎太郎をして興味を抱かせるトップアスリート。金メダリストやプロのスター選手として大活躍する彼らは、すべての日本国民にとっても大いなる希望の星であり、私も限りなく彼らをリスペクトしています。
 トップアスリートとは言うまでもなく身体のエリートですが、私は知性においてもエリートであると思っています。俗に、運動ばかりしている人は脳も筋肉でできていて知性がないなどといわれますが、トップアスリートに頭の悪い人はいません。彼らはあるとき偶然に「これだ!」という優れたパフォーマンスを体験します。しかし、一回きりでは意味がありません。いつでも使える「技」に変えていく必要があります。その手がかりになるのは、最初のときに得た身体感覚だけ。といっても、感覚は完全には言葉に置き換えられませんから、意識化が難しい。非常に知的な作業をしているのです。
 いい選手になれるかどうかは、練習や試合のときの意識の明晰さにかかっています。具体的にチェックするには、選手を呼び止めて「いま何を意識しながら練習をしているのか?」と質問するとよいでしょう。いま何のために何をしているのか。目的意識を明確に持っている者ほど上達していきます。
 これは必ずしも、彼らが常にすべてを言葉で細かくとらえているということではありません。すべてを言葉にはできなくとも明晰な意識はあり得ます。身体感覚の微妙な違いをそのつど感じ分けている者ほど、反復練習がつらくなりません。そして、定着させようとしている身体感覚を求め続けることで、自然と回数が進んでしまうのです。結果として、身体感覚の敏感な者ほど練習の質と量が高まることになるのです。
 意識を鮮明に保つ。しかし、ここぞというときには、意識のコントロールを超えて身体が爆発する。この冷静さと過剰さが、トップアスリートの魅力です。興奮に流されるだけでは勝つことができません。冷静にコントロールしているだけでも不十分です。潜在力を炸裂させつつ、脳はどこかシンと冷えて高速回転を続けている。土壇場まで追い込まれた場面で、この力の開放ができるかどうか。それが大舞台での強さを決めるのです。
 そんなトップアスリートたちの敵とは、もはやライバル選手などではなく、自分自身以外にはありません。「日本最高の知性」とされた評論家の小林秀雄は、かつてロンドン五輪の映画を見たとき、競技する選手たちの顔が大きく映し出される場面がたくさん出てきて、非常に強い印象を受けたそうです。カメラを意識して愛嬌笑いをしている女性選手の顔が、弾丸を肩に乗せて構えると、突如として聖者のような顔に変わるというのです。どの選手の顔も行動を起こすや、一種異様な美しい表情を現わす。むろん人によりいろいろな表情ですが、闘志というようなものは、どの顔にも少しも現われてはいないことを、小林秀雄は確かめました。闘志などという低級なものでは、到底遂行し得ない仕事を遂行する顔です。相手に向かうのではない。そんなものは既に消えている。それは、緊迫した自己の世界にどこまでも深く入っていこうとする顔です。選手は、自己の砲丸と戦う、自分の肉体と戦う、自分の邪念と戦う、そして遂に自己を征服する。
 一方、五輪映画には見物人の顔も大きく映し出されますが、これは選手の顔と異様な対照を示します。そこに雑然と映し出されるものは、不安や落胆や期待や興奮の表情です。「投げるべき砲丸を持たぬばかりに、人間はこのくらい醜い顔を作らねばならぬか。彼等は征服すべき自己を持たぬ動物である」と、小林秀雄は「私の人生観」というエッセイに書いています。
 砲丸というのはもちろん比喩ですが、私たちも自分なりに投げるべき砲丸を持ち、自己の征服に励みたいものです。スポーツのみならず、どんな仕事においても、私たちは聖者のような顔になれるのです。砲丸といえば、アテネ五輪の陸上男子ハンマー投げで金メダルを獲得した室伏広治は、「私としては、一番重要なのは努力し続けることだと思っている。ハンマー投げの選手に違反があったことは残念。アヌシュ選手がどうだとかいう噂は流れていたが、自分としてはどうこうは考えなかった」と語っています。やはり敵はアヌシュなどではなかったのです。
 マラソン女子で金を獲った野口みずきは、「(最後は)誰が追いかけてくるのか、分からなかったが、近づいてきているんだろうなと思った。幸せです。頑張ってきてよかったです」と語り、競泳男子で二種目制覇を果たした北島康介は、「素直にうれしい。人生の中で一番ハッピー。自分が冷静なのが分かった。周りをしっかり見る余裕があった」とのコメントを残しています。
 私は柔道に思い入れが強いので、特に熱心にテレビ観戦しましたが、男子六六キロ級金の内柴正人は、「生まれて初めて、ひらめきがあった。相手がよく見えた。今までこんなことはなかった」。男子六〇キロ級で前人未到の三連覇を達成した野村忠宏は、「自分の中では最高の柔道ができたと思う」「周りを見ても、自分ほど金メダルの似合いそうな選手はいなかった」。そして女子四八キロ級二連覇の谷亮子は、「シドニーのときよりも何倍もうれしいです。連覇という夢に向かって一生懸命、練習してきた。(けがは)七割くらい回復していたが、痛くても畳の上に立って試合をすると決めていた。一日一日が真剣勝負だった」と、それぞれが自己に勝利した者として最高の笑顔で語っていました。
 しかし、何よりもトップアスリートが戦っている相手が自分自身であることをよく示したのが、大リーグの年間最多安打を記録したイチローの「この記録、破るなら自分で」という一言でしょう。イチローこそは、真の天才です。天才とは、才能があるから何の苦労もせずに大きな事を成し遂げた人、あるいは突発的に何かを思いつく「変人」ではありません。自己を征服し、さまざまな工夫をやり遂げた「上達の達人」のことです。
 イチローほど努力した人はいません。彼の場合、野球選手として自分をつくってきた最大のポイントは、小学校三年から中学時代までほとんど毎日続けたという父親との練習とバッティングセンターの練習にありました。事実、彼はバッティングセンターがつくった天才だと言われていますが、小学校の時点ですでに日本で一番バッティング練習量の多い小学生だったのです。
 プロに入っても彼の練習量は減らず、キャンプでもバッティングマシーンでの練習が何時間にもわたったといいます。普通の選手は多くて二〇分から三〇分の練習のところ、イチローは二時間、三時間という「時間」単位です。それをキャンプ中にずっとやり続けることができる。そんなイチローの練習する姿を見て、当時オリックス・ブルーウェーブの仰木監督は、「あれだけ練習すれば打てるわ。まあ、普通の選手はあんな練習はできないがな」と言ったそうです。それほどの練習をすると、膨大な練習量がそのまま体に染み込む。そこで蓄積される情報量は膨大なものになるわけです。
 イチローはまた、誰よりも早く球場入りし、試合前には入念に身体をほぐした後、実践さながらの練習をしながら集中力を高めていきます。これこそプロの世界であり、あらゆる業界のプロフェッショナルが見習うべき点でしょう。私はイチローを見ていると、いつも禅僧をイメージしてしまいます。禅において日本人が重視するのは「精進(努力)」と「禅定(集中力)」の部分ですが、イチローはその両方の達人です。彼は精進して、禅定をもって、来た球を自在に打つ。般若心経は「空」を説いていますが、欲望を慎んでこだわらないという教えを誰よりも忠実に実践しています。僧侶より禅をよく知っているかもしれません。
 そして、イチローの成功の陰にチチロー、すなわち父親という偉大なコーチの存在があったことを忘れてはなりません。少年時代の彼の猛練習は、すべて父親との二人三脚でした。また、アテネ五輪の金メダリストをはじめ、すべてのトップアスリートには実の父をはじめとした素晴らしいコーチがついています。
 「コーチ」というと、誰もがスポーツ界のコーチを思い浮かべるでしょう。今までのプロ野球やサッカーのコーチは、現役時代に注目を集める高い実績を残した人がほとんどでした。ですから、私たちは、スポーツのコーチの仕事は、自分の高い技能やノウハウを後進に伝授し、指導することというイメージを持っています。しかも「鬼コーチ」という言葉があるように、そこにはつきものとして「厳しさ」があります。
 本当にコーチのノウハウを伝授すれば、プレーヤーは伸びるのでしょうか。現役時代に名選手と呼ばれたい人でも、名コーチとして名を残すことができる人と、コーチとしては結果を出せない人がいます。その二つを分けているのは、「選手個々の技能を見極め、優れた部分に焦点を当て、伸ばせる人」か、「相手かまわず自分のノウハウを押しつけ、合わない選手を潰してしまう人」かという違いです。つまり、「鬼コーチ」が結果を出すというのは思い込みと誤解がつくりあげたセオリーだったのです。
 ビジネス界においても、これまでの管理職の人材育成の手法は、スポーツコーチと同じ考え方で行なわれてきました。つまり、「プレーヤーとして有能だった人が管理職となれば、同じやり方を受け継がせるために、的確な指示・命令ができ、部下も同様に成功できる」という考え方です。ところが、指導者が厳しく自分のやり方を押しつけてトレーニングしてきた組織では、いざ試合となった場合、「選手たち」はコーチの的確な指示がないと判断に迷い、立ち往生してしまうという事態を招くのです。好景気の時代、動きのゆるやかな時代は、それでも乗り切ってこられました。しかし、現在の厳しいビジネスシーンでは、「試合中」に自分で考えて動けない選手は、大切なビジネスチャンスを逃してしまいます。
 いま、何が起こるかわからない変化の時代です。情報一つをとってみても、これまで業界の人間しか知りえなかった情報をお客様は容易に入手し、比較検討するようになりました。商品のみならず、医療や法務などの専門知識に関しても、一般人は無知ではなくなりました。多くの情報の中から主体的に商品やサービスを選びたいと思っているのです。そんななか、「チームのコーチ」である管理職が持っている「答」が正解である保証はどこにもありません。以前の正攻法が今はもう、ありふれた手法や陳腐なやり方である場合が多いのです。このような社会背景において、組織は、自分で考え、行動できる人材を育成する必要に迫られており、その結果生まれた「手法」がコーチングです。
 「コーチング」という概念は、一九九〇年代のアメリカで大きなブームとなりましたが、日本でも最近、非常に注目されています。「コーチング」を漢字三文字で表現すると「信」「認」「任」となります。「信」とは、人間の無限の可能性を信じること。「認」とは、一人ひとりの多様な持ち味と成長を認めること。そして「任」とは、適材適所の業務・目標を任せることです。
 コーチングは、会話によって相手の優れた能力を引き出しながら、前進をサポートし、自発的に行動することを促すコミュニケーション技術です。「質問」を何度も重ね、相手の中の「答え」を引き出します。コーチングによって、自ら考え、自ら動く部下が生まれると同時に、上司の人格をも磨くことができるのです。