2005
01
株式会社サンレー

代表取締役社長

佐久間 庸和

「サンレーは太陽を追う会社

 この一年も大いに輝こう!」

 明けましておめでとうございます。輝かしい新年を迎えるにあたり、みなさんは初日の出を拝まれたでしょうか。私は、例年通りに門司青浜にある皇産霊神社で素晴らしい初日の出を拝む予定でしたが、あいにくの大雪で今年はかないませんでした。残念ですが、大自然の前では人間は無力です。仕方ありません。
 皇産霊神社はサンレーグループの総守護神である皇産霊大神を祭った神社ですが、佐久間会長の「北九州で朝日が一番美しい青浜に神社を建てたい」という願いがかなって一九九六年に建立されました。毎年、元旦には何千人もの人々がこの神社を訪れ、初日の出を拝んでいます。
 昨年、「太陽を追う男」の題名で佐久間会長の一代記が「スポーツ報知」紙に連載され、単行本も出版されました。この「太陽を追う男」という名は、実は私がつけました。会長の人生とは文字通り、太陽の追及だったからです。千葉県の房総半島に生を受けた会長は、少年期、太平洋に面した鴨川市の沖に浮かぶ仁右衛門島から昇る荘厳な日の出に心の底から魅せられたそうです。その島がかの日蓮上人の修行の地と知りました。若き日蓮は島によく渡っては、洞窟の中に座って朝の光を浴びながら修行したといわれます。日蓮は佐久間家の祖先とも浅からぬ縁があるようですが、まさに太陽が人間化したような人でした。一二二二年に現在の千葉県南部である安房の小湊の漁師の家に生まれましたが、子宝になかなか恵まれなかった父母は毎日のように朝日に向かって手を合わせ、良い子が授かるよう祈りました。ある夜、母は懐に蓮華に乗った太陽が飛び込む夢を見て懐妊します。出産当日、浜辺に見事な青蓮華が数十本生え、花を開く。そのうえ、家の庭に泉がわき出し、これを見た村人が仰天しているうちに、立派な男子が生まれます。両親は善日麿と名づけ、やがて清澄寺の住職で学徳高い道善に預け、勉強させました。
 十二歳のとき、薬王麿と改名。天台、禅、浄土各宗派の教義を極めたあと、下山。各地の高僧を訪ね回り、帰郷。そして、一二五三年に清澄山頂で、大海原から昇る朝日に向かって、初めて「南無妙法蓮華経」と唱えたといいます。
 日蓮という名は、太陽と蓮華の融合です。蓮の花は、根を泥の中に下ろしながら清浄な花を咲かせます。それゆえ蓮華は「煩悩即菩提」という大乗仏教の思想を象徴する花として尊重されますが「法華経」はまさにこの蓮華を題名とする経典です。ここで大乗仏教、特に「法華経」が灼熱の太陽の如き人間と結びつき、ついに火の如く燃え、太陽の如く光り輝いたのです。このように日蓮と太陽との関わりは、きわめて深く、それゆえに日蓮には仮面をかぶった神道家という一面があります。
 その日蓮の同郷人として大いに影響を受けた佐久間会長の心は自然と太陽を追い求めるようになったのです。社名を「太陽の光」を意味するサンレーとし、国内で日照時間が一番長い宮崎、逆に一番短く最も太陽を求めている金沢、そしてまさに太陽の国・沖縄など太陽に関連する土地に次々に進出し、人々の心を明るく照らすべくチャレンジしてきました。会長は、「私の生涯は太陽、それも美しい日の出を追い求めていたような気がする。石垣島の日の出は世界一だと思うし、九州では門司の青浜から見る日の出が素晴らしい」と、語っています。
 サンレーは「太陽を追う男」が創業した、いわば「太陽を追う会社」ですが、太陽の重要性はいくら語っても語り尽くせません。太陽の研究は、二十世紀に入って現代物理学が誕生してから大いに進みました。太陽を光り輝かせているエネルギー源が、太陽に豊富に存在する水素核、言い換えれば、陽子が順々に四個融合してヘリウム核を合成する原子核反応に伴って開放される原子核エネルギーにあることが明らかになったのです。
 この天体の存在なしでは、当然のことながら、地球も存在しえませんでした。また、太陽が送り届けてくれる光エネルギーがなかったとしたら、地球は暗黒の凍った天体となってしまっており、生命を育む存在とはなりえませんでした。旧約聖書の「創世記」には、最初に神が「光あれ」と言いますが、それは太陽光線のことだと私は思います。
 太陽が周囲の空間へ向けて休むことなく送り出している光エネルギーの源泉は原子核エネルギーにあり、現在では「熱核融合反応」というふうに呼ばれていますが、これが夜空に輝く星々の大部分の光エネルギーを生み出しているのです。こんなわけで、私たちの生活は、太陽の中心部にある天然の核融合炉の運転によって維持されているのだと言えるでしょう。
 思いをめぐらせば、いま、私たちが使用している石油や石炭も太古の昔に地球が蓄えた太陽からの光エネルギーですし、最近では太陽エネルギーそのものが発電にも利用されています。太陽活動の指標である太陽黒点数の変動には約十一年周期の循環性がありますが、これが地球上の気象環境やエコロジー、さらには経済・景気変動にまで影響しているとされています。
 太陽は、古代に生きた人々の生活と信仰を支える大切な天球でした。生活においては、彼らの暮らしが狩猟や農耕に依存していたので、太陽がいかに大きな力を及ぼしているかについてはよく理解していたでしょう。そこから太陽に対する崇拝や信仰が生まれ、神そのものを感じました。太陽は月とともに、人類最古の信仰の対象だったのです。さまざまな人工照明により夜間を明るくする工夫がなされている現代では、真の闇がどんなものかを想像することは困難です。真っ暗闇の状態では、すぐ近く、手を伸ばせば届くようなところまで危険が迫っていてもわかりません。古代人は、このような恐怖に満ちた状況の中で生活を送っていました。そのためか、朝日が昇ってくるのを見たときは安堵の気持ちを抱いたことでしょう。あらためて太陽の恵みに深い感謝の心を抱いたに違いありません。
 太陽が西の空の向こうに沈んだあと、二度と再び回帰してくることがなかったとしたら、人々は夜の恐怖にさらされるだけでなく、太陽のもたらす恵みも受けられなくなります。古代人たちが、沈みゆく太陽が再び東の空に昇ってくるようにと祈願するようになったのは当然の帰結でした。このようなことから、太陽がもたらす恵みに感謝する祭祀や、冬至や夏至に当たる日に特別の祭りを行なうようになったのでしょう。太陽の光に対する感謝の念も、当然強くなりました。
 太陽に関する神話も地球上のあらゆる場所で誕生しました。わが国にも、よく知られた神話として天照大神が隠れたという「天の岩戸」の物語がありますが、民俗学者の折口信夫も推測したように、おそらく毎年訪れる冬至における祭りから生まれたのだと思われます。
 ストーンヘンジで有名なイギリスのウェセックス地方などもそうですが、日本の古代に生きた人々は、太陽が最も南に移った冬至のときに「再び北へと戻ってくることがないのではないか」と恐怖を感じました。そのとき、真昼でも太陽の位置は天空上で低く、その光は弱々しく、厳しい寒さを迎えていました。もし太陽が再び北へと移ってくることがなかったら、この弱々しい光を投げかける太陽が死を迎えるのではないかと恐れられたに違いなく、だからこそ、冬至での祭りは真剣に行なわれたことでしょう。冬至は毎年一度、定期的に訪れるので太陽の天空上の運行の規則性に気づいたはずです。その結果、太陽の回帰に対する祈願や祭りは次第に儀礼的な行事へと移っていったのです。暦の発明は、太陽や月、あるいは他の明るい星々の天空上の規則的な運行と、その周期性に気づいたことから始まりました。天の岩戸の神話も、こうした行事から生まれたと思われます。
 太陽は、私たちが聖地と呼ぶ場所にも深く関わっています。日本でもヨーロッパでも、あるいはインドでも南アメリカでも、聖地と呼ばれる地点には共通した特徴があります。 第一に、古代から決まった地点がずっと聖地とされ続けたこと。第二に、そこが宇宙の力を集め、神が降り立つパワースポットであること。また、シャーマンや巫女がいること。第三に、信仰の目印となる岩や山や木があること。そして第四に、太陽や星の位置にからんで厳密に方位が決まっていること。では、なぜ聖地にはそのような特徴があるのでしょうか?
 聖地の謎を解くには、中国の風水思想における「龍脈」とい考え方があります。大地には人体と同じようにツボがあって、そのツボを結んでいくところに神社や寺院や遺跡があるというものです。この龍脈にも通じますが、イギリスではレイラインという古代科学が最も関心を持たれています。十九世紀の終わりに地方文化人のアルフレッド・ワトキンスは、農作地方を旅している途中、一瞬の幻視というのか、神がかりというのか、いま目にしている農作地帯の表面に碁盤目のような直線路のまぼろしが重ね写しになりました。すると、時間が溶けて古代のこの地域の眺めが、突如として出現したというのです。
 太古から伝えられた聖木、聖なる塚、巨石、そしてキリスト教以前からの聖地に建てられた聖堂、道の四辻、聖なる泉、そういった古い異物が幻のように出現。しかも、碁盤目のように引かれた直線の上にぴたりと位置している。それはまるで、古い聖地・聖遺物が碁石として目に見えない直線の上に置かれている光景でした。それで、地図を広げて調べてみると、彼の幻視したとおり、一本の直線上に巨石サークルのストーンヘンジをはじめとした聖地や遺跡がみんなあったのです。その直線は、地名のスペルがレイで終わっている場所が多いところから、レイラインと名づけられました。
 レイという語は、ふつう空き地とか原っぱの意味ですが、それでは手がかりになりません。さらに古い時代の用語法を丹念に調査したところ、レイという古語には第一に「光」、第二に「まっすぐな道」なる意味があったことが判明しました。光を追いかける直線路に点々とあるレイの地名。それはつまり、太陽光線を指針とした巨大な超古代時計の名残だったのです。直線路は定規の役を果たし、そこに刻まれる目盛りこそレイと名のつく地名だったのだ、とワトキンスは理解しました。
 そして、彼が注目したのが「太陽の道」でした。冬至あるいは夏至の日に太陽が出る方角に引いた一本の直線、これを太陽の道と呼び、すでに古代人が時計やカレンダー用としてこのような光の道を利用していたことも認められていました。
 太陽の道は北緯三十五度線上にあります。日本にも、太陽の道はありました。北緯三十四度三十二分の太陽の道は、伊勢神宮から三輪山・檜原神社を経て、箸墓、二上山、淡路島の伊勢の森へと続いています。冬至線、夏至線、春分・秋分線の太陽の昇る位置と落日の位置が、古代人の信仰と生活にとってどれほど重要な意味を持っていたかを私たちは再認識する必要があります。
 さらに風水やレイラインに詳しい作家の荒俣宏氏によれば、過去二千年のあいだ、文明や文化を支えた聖地は、みんな北緯三十五度線上にあり、これを第一聖地ラインと名づけています。たとえば地中海を起点とすると、古代文明の地クレタ島、太陽神アポロンの聖地ロードス島、キプロス島、レバノン、ダマスクス、ナザレ、エルサレム、バグダッド、バビロン、イスファハーン、テヘラン、パミール高原、崑崙山脈、タクラマカン、中国の西安、洛陽、開封......すべて古都であり、二千年以上むかしに栄えた人類の古代文明に、ことごとく関わっているラインです。また日本なら、対馬、出雲、淡路島、京都、奈良、吉野、名古屋、静岡、そして房総が三十五度の線上にあります。どこも日本の古代史にとって重要な聖都と聖地ばかりです。
 また、荒俣氏は、小説『レックス・ムンデイ』において、北緯四十三度上の第二聖地ラインというものを紹介しています。これは現在最も力のある二十一世紀の聖地ラインで、ウラジオストク、道教の聖地である長白山脈、長春、聖なるモンゴルのゴビ砂漠、楼蘭、ロプノール、天山山脈、カスピ海、黒海、イスタンブール、聖なるバルカン山脈、ソフィア、サラエボ、イタリアに入って大聖堂があるシエナ、フィレンチェ、地中海に入るとエルバ島、コルス島、そしてフランスに上陸し、聖ギャルド教会のマルセイユ、モンペリエ、幻の中世都市カルカッソンヌ、そしてイエスの遺骸があるとされるレンヌ・ル・シャトー。二十一世紀からの二千年間は、この新聖地ラインで人類の精神文化が華ひらくことになるというのが荒俣氏の予言です。
 いずれにせよ、聖地というものは太陽の運行と深く関わっています。太陽の光を社名とする我がサンレーグループは今年も大いに輝いて、地域社会を明るく照らそうではありませんか!