2005
05
株式会社サンレー

代表取締役社長

佐久間 庸和

「月を見よ、死を想え!

 魂のエコロジーを取り戻せ!」

 一月に太陽の話をしましたが、今月は月の話をしたいと思います。昨年二月にサンレーグランドホテルにおいて初めて「月への送魂」を行ないましたが、大変な反響がありました。特にマスコミからの問い合わせが多く、取材したいので再度やってくれないかという依頼をたくさん受けました。
 十三年前に「ムーン・ハートピアプロジェクト」を最初に発表したときも非常に大きな反響があり、海外も含めて多数の新聞・雑誌・テレビで紹介されました。サンレーグループが二〇二〇年の実現に向け、月に地球人類の墓標としての「月面聖塔」を建て、故人の霊魂をレーザーの光に乗せて地上から月へ送る「月への送魂」を行なうという計画を推進する。これが世間の関心を大いに惹きました。 初めてこの計画を知った人の中には、荒唐無稽とか誇大妄想といった感想を抱く人もいるようですが、このプロジェクトの背景には人類の平和にまで関わるさまざまな問題があります。  まず、現代の日本人の死生観の問題がある。超高齢化社会を迎え、脳死、安楽死、尊厳死と、人間の死をめぐる論議が二十世紀末からずっと続いています。また毎年、三万人以上の人々が自ら命を絶っています。これらの問題はいずれも人間をモノとみなし、死を操作の対象ととらえている点で共通していると言えるでしょう。そんな道具的生命観が主流を占めているような社会で切り捨てられてきたのが、人間は自然の一部であるというエコロジカルな感覚であり、かつ宇宙の一部であるというコスモロジカルな感覚でした。二十一世紀は、これらの切り捨てられた感覚を人間が回復する世紀です。さらには、多くの人々が孤独な死を迎えている今日、動植物など他の生命はもちろん、死者たちをも含めた大きな深いエコロジー、いわば「魂のエコロジー」のなかで生と死を考えていかなければなりません。
 古代人たちは「魂のエコロジー」とともに生き、死後への幸福なロマンを持っていました。その象徴が月です。彼らは、月を死後の魂のおもむくところと考えました。月は、魂の再生の中継点と考えられてきたのです。多くの民族の神話と儀礼のなかで、月は死、もしくは魂の再生と関わっています。規則的に満ち欠けを繰り返す月が、死と再生のシンボルとされたことはきわめて自然だと言えます。地球上から見るかぎり、月はつねに死に、そしてよみがえる変幻してやまぬ星なのです。
 また、潮の満ち引きによって、月は人間の生死をコントロールしているという事実があります。さらには、月面に降り立った宇宙飛行士の多くは、月面で神の実在を感じたと報告しています。月こそ神の住処であり、天国や極楽、つまりそこは魂の理想郷「ムーン・ハートピア」である。
 さて、葬式仏教といわれるほど、日本人の葬儀や墓、そして死と仏教との関わりは深く、今や切っても切り離せませんが、月と仏教との関係も非常に深い。お釈迦さまことブッダは満月の夜に生まれ、満月の夜に悟りを開き、満月の夜に亡くなったそうです。
 南方仏教の伝承によると、ブッダの降誕、成道、入滅の三つの重要な出来事はすべて、インドの暦でヴァィシャーカの月の満月の夜に起こったというのです。太陽暦では四月か五月に相当しますが、このヴァィシャーカの月の満月の日に、東南アジアの仏教国では今でも祭りを盛んに行なっています。これは古くからあった僧俗共同の祭典の名残だそうです。また毎月二回、満月と新月の日に、出家修行者である比丘たちが集まって、反省の儀式も行なわれています。
 ブッダは、月の光に影響を受けやすかったのでしょう。言い換えれば、月光の放つ気にとても敏感だったのです。私はやわらかな月の光を見ていると、それがまるでヴィジュアライズされた「慈悲」ではないかと思うことがありますが、ブッダという「めざめた者」には月の重要性がよくわかっていたはずです。「悟り」や「解脱」や「死」とは、重力からの開放に他ならず、それは宇宙飛行士たちが「コズミック・センス」や「スピリチュアルワンネス」を感じた宇宙体験にも通じます。
 満月の夜に祭りを開き、反省の儀式を行なう仏教とは、月の力を利用して意識をコントロールする「月の宗教」だと言えるでしょう。太陽の申し子とされた日蓮でさえ、月が最高の法の正体であり、悟りの本当の心であり、無明(煩悩・穢土)を浄化するものであることを説きました。「本覚のうつつの心の月輪の光は無明の暗を照らし」「心性本覚の月輪」「月の如くなる妙法の心性の月輪」と述べ、『法華経』について「月こそ心よ、華こそ心よ、と申す法門なり」と記しています。日蓮も月の正体をしっかり見つめていたのです。
 仏教のみならず、神道にしろキリスト教にしろイスラム教にしろ、あらゆる宗教の発生は月と深く関わっています。地球人類にとって普遍的な信仰の対象といえば、なんと言っても太陽と月です。太陽は西の空に沈んでいっても翌朝にはまた東の空から変わらぬ姿を現しますが、月には満ち欠けがあります。常に不変の太陽は神の生命の象徴であり、死と再生を繰り返す月は人間の生命の象徴なのです。また、「太陽と死は直視できない」というラ・ロシュフーコーの有名な箴言があるように、人間は太陽を直視することはできません。しかし、月なら夜じっと眺めて瞑想的になることも可能です。あらゆる民族が信仰の対象とした月は、あらゆる宗教のもとは同じという「万教同根」のシンボルなのです。キリスト教とイスラム教という一神教同士の宗教戦争が最大の問題となっている現代において、このことは限りなく大きな意味を持っています。
 さらに、人類の生命は宇宙から来たと言われています。DNAの二重螺旋構造の提唱者として知られるフランシス・クリックが「生命の起源と自然」を発表し、生命が宇宙からやってきた可能性を認めました。その後、ホイルやウィックラマシンジは生命の種子が彗星によってもたらされたと主張しているのです。私たちの肉体をつくっている物質の材料は、すべて星のかけらからできています。その材料の供給源は地球だけではないのです。はるかかなた昔のビッグバンからはじまるこの宇宙で、数え切れないほどの星々が誕生と死を繰り返してきました。その星々の小さな破片が地球に到達し、空気や水や食べ物を通じて私たちの肉体に入り込み、私たちは「いのち」を営んでいるのです。
 私たちの肉体とは星々のかけらの仮の宿であり、入ってきた物質は役目を終えていずれ外に出てゆく、いや、宇宙に還っていくのです。宇宙から来て宇宙に還る私たちは、宇宙の子なのです。そして、夜空にくっきりと浮かび上がる月は、あたかも輪廻転生の中継基地そのものと言えます。人間も動植物も、すべて星のかけらからできている。その意味で月は、生きとし生ける者のもとは同じという「万類同根」のシンボルでもあるのです。
 かくして、月に「万教同根」「万類同根」のモニュメントとして「月面聖塔」を建立し、「月への送魂」によって地球から故人の魂を送るという「ムーン・ハートピア・プロジェクト」が二〇二〇年の実現をめざして生まれました。月に人類共通の墓があれば、地球上での墓地不足も解消できますし、世界中どこの夜空にも月は浮かびますから、それに向かって合掌すれば、あらゆる場所で死者の供養をすることができます。また、遺体や遺骨を地中に埋めること、つまり埋葬によって死後の世界にネガティブな「地下へのまなざし」を持ち、はからずも地獄を連想してしまった生者に、ポジティブな「天上へのまなざし」を与えることができます。そして、人々は月を霊界に見立てることによって、死者の霊魂が天上界に還ってゆくと自然に思い、理想的な死のイメージ・トレーニングを無理なく行なうことでしょう。  私は、二十一世紀の「葬」としての「ムーンハートピア・プロジェクト」について一冊の本にまとめ、『ロマンティック・デス』と題して、一九九一年の秋に上梓しました。私の予想をはるかに超えて本は読まれましたが、早いものでもう十三年が経ちました。二十世紀から二十一世紀へと時代は移り、昨年、ついに「月への送魂」は実行されました。「月面聖塔」の方はまだしばらくおあずけですが、巨大模型をサンレーグランドホテルのロビーに展示しており、多くの人の目を引いています。二〇二〇年には月面開発が自由化されるので、実際に建立することもできます。小さなミニチュアなら、今でもロケットに積んで月面に置いてくることもできます。でも私は、それはたいして重要なことだとは思っていません。もちろん、モニュメントとしての「月面聖塔」には大きな意味があります。しかし、月面に建造物をつくるというよりは、月そのものが地球人類にとっての聖地であり、「万教同根」「万類同根」のシンボルであるのだという考えが、この十三年のあいだにだんだん強くなってきたのです。ですから今は、月に向かって魂を送る「月への送魂」こそが何よりも重要であり、「月面聖塔」はいつの日にか実際につくるもよし、つくらなくても別によしという考えです。
 実際に私も体験して非常に感動しましたが、「月への送魂」はかなりのインパクトを見る者に与え、葬儀に対するイメージを変化させる力を持っています。まさに壮大な夜のスペクタクル・セレモニーです。しかし、決して奇をてらっているのでも思いつきでもありません。ひとつひとつの葬儀が実は宇宙的な出来事なのだということを人々に感じさせ、コスモロジカルでエコロジカルな死生観を表現するために必要な演出なのです。 さて、「葬送」という言葉がありますが、今後は「葬」よりも「送」がクローズアップされるでしょう。「葬」という字には草かんむりがあるように、草の下、つまり地中に死者を埋めるという意味があります。「葬」にはいつまでも地獄を連想させる「地下へのまなざし」がまとわりついているのです。一方、「送」は天国に魂を送るという「天上へのまなざし」へと人々を自然に誘います。「月への送魂」によって、葬儀は「送儀」となり、お葬式は「お送式」、そして葬祭は「送祭」となるのです。
 月についていろいろと語ってきましたが、最後に月の最大の謎についてお話したいと思います。もともと謎の宝庫ともいえる月における最大の謎とは何でしょうか?それは、地球から眺めた月と太陽が同じ大きさに見えることです。人類は長いあいだ、このふたつの天体は同じ大きさだとずっと信じ続けてきました。しかし、月が太陽と同じ大きさに見えるのは、月がちょうどそのような位置にあるからなのです。
 月の直径は、三四七六キロメートル。太陽の直径は、一三八万三二六〇キロメートル。つまり、月は太陽の四百分の一の大きさです。次に距離を見てみると、地球から月までの距離は、三八万四〇〇〇キロメートル。地球から太陽までの距離は、一億五〇〇〇万キロメートル。この距離も不思議なことに、四百分の一なのです。こうした位置関係にあるので、太陽と月は同じ大きさに見えるわけです。それにしても、なんという偶然の一致!皆既日食も、太陽と月がぴったりと重なるために起こることは言うまでもありません。この「あまりにもよくできすぎている偶然の一致」を説明する天文学的理由はどこにもありません。月がUFOのような人工の天体であり、何者かが月を一定の速度と位置に正確に保つようにしているとでも考えなければ、この謎はどうしても解けないのです。
 本当に、月について考えだすと興味が尽きません。いま、「尽き」と言いました。そう、月の古語「ツク」からは「尽く」という言葉が派生しています。「尽く」とは「果て」「極限に達する」という意味です。そして、「底を尽く」というように、その果てにすべては無になります。尽きに映し出される神秘や謎や不思議とは、私たちの魂の働きを底の底まで尽くした果ての真実に他なりません。
 人間の真相心理において、月はより原初的なものと結びつけられています。詩、夢、魔法、愛、瞑想、狂気、そして誕生と死。そのすべての神秘性を、月は常に映し続けているのです。
 その月に向かって故人の魂を送ることは、現代人が「魂のエコロジー」を取り戻し、真に幸福になるためのお手伝いであると私は確信しています。
 この世より 光となりて 放たれり
   これぞ送魂 月こそあの世 (庸軒)