2005
09
株式会社サンレー

代表取締役社長

佐久間 庸和

「人は老いるほど豊かになる

    長寿祝いの習慣を大いに広めよう」

 九月十九日は「敬老の日」ですね。今月は「老い」について考えてみたいと思います。私は現在、「朝日新聞」や「ハートライフ」で高齢者の方々に向けてのエッセイを連載していますので、高齢社会はどうあるべきかということを毎日のように考えています。
 総務省は今年の三月、九〇歳以上の人口が全国で初めて百万人を突破したと発表しました。わが国人口の年齢構成は少子高齢といわれるように急速に高齢社会に突入しています。平成十六年十月一日の時点で、六十五歳以上の人口は、全国で一九・五%となっています。また、国立社会保障・人口問題研究所では六十五歳以上の将来人口を、平成二十七年(二〇一五年)で二六・〇%、四十二年(二〇三〇年)で二九・六%と推計しています。
 私が『老福論』で世界一の超高齢化都市だと指摘した北九州市の場合はどうでしょうか。人口推移で見ると、平成十六年の高齢化率は二一・三%、二十七年には二八・八%、四十二年には三二・二%と、やはりダントツの高齢化率になると見込まれています。日本そのものも世界一の高齢化国ですが、十三政令指定都市で見ると、六十五歳以上の高齢化率は北九州市が不動のトップの座を占めています。
 また、もう一つの年齢構成の指標として、「団塊の世代」があります。昭和二十一年(一九四六年)から二十五年(一九五〇年)に生まれた世代の人口は、合計一〇三七万人という、文字通り大きな塊を形成しています。この塊が、今後の高齢社会の行方にさまざまな影響を与えていくと言われています。つまり、団塊の世代が高齢者となったとき、レジャーやファッションやカルチャーに対する関心がこれまでとは比較にならないほど高い、未知の高齢社会が到来するのです。
 このような高齢化・長寿化が進むなかで、朝日新聞社はこの六月より高齢者向けの「はつらつ新聞」を発行し、通常の「朝日新聞」のなかに挟んで、新しい高齢社会のあり方を提言しています。私は毎回、一面で「人は老いるほど豊かになる」という連載をさせていただいています。おかげさまで大変好評のようで、読者の方々からお便りをいただいたり、新聞に顔写真が載っているせいで街で声をかけられることもしばしばです。「朝日新聞」というメディアの影響力の大きさを実感します。それがそのまま当社の互助会募集や葬儀の施行にもつながるわけで、本当にありがたいことだと思います。
 また、当社の会員情報誌「ハートライフ」でも「グランドライフのすすめ」と題して、豊かな老後を送るさまざまなヒントを提案させていただいています。このように、いたるところで私は、老いの豊かさを説くとともに、「好老社会」や「老福都市」の重要性を訴えています。  現代の日本は、工業社会の名残りで「老い」を嫌う「嫌老社会」です。でも、かつての江戸や古代中国や古代エジプトなどは「老い」を好む「好老社会」でした。前代未聞の超高齢化社会を迎える私たちに今、最も必要なのは「老い」に価値を置く好老社会の思想であることは言うまでもありません。そして、それは具体的な政策として実現されなければなりません。世界に先駆けて超高齢化社会に突入する現代の日本こそ、世界のどこよりも好老社会であることが求められます。日本が嫌老社会で老人を嫌っていたら、何千万人もいる高齢者がそのまま不幸な人々になってしまい、日本はそのまま世界一不幸な国になります。逆に好老社会になれば、世界一幸福な国になれるのです。まさに、天国か地獄です。
 そして、日本が好老社会になるためには、日本一の超高齢都市である北九州市が「好老都市」になる必要があります。東京でも大阪でもなく、北九州市こそが、まず先駆けとして「好老都市」になるべきなのです。私は、好老都市のことを、高齢者が幸福になれる街という意味で、「老福都市」と呼んでいます。また、国際的にアピールするためには「グランドシティ」という言葉を使っています。ともに非常にポジティブな印象があります。
 現在、特区行政ということで、物流特区など数多くの特区が全国につくられています。私はぜひ北九州市に「高齢者福祉特区」をつくるべきだと思います。全国には一人暮らしの高齢者がなんと三百万人以上もいます。その人々をはじめ、全国の高齢者が北九州市の高齢者福祉特区に集まってくればよいと思います。もともと北九州市は医療施設や介護施設が充実していると言われますが、それらをさらに充実させて、逆に税金や医療費は安くします。買い物はもちろん、高齢者向けのレジャー施設やカルチャー施設も充実させる。つまり徹底して、高齢者にとって安心で楽しくて生きがいをもてる街をつくる。
 もちろん、これらをすべて北九州市民の税金だけでまかなうのは大変ですし、はじめから不可能です。そこで特区として、国に負担してもらう。国も、全国に先駆けて理想的な高齢先進都市のモデルづくりができれば、国益を高めると判断するはずです。全国各地でバラバラに高齢都市モデルをつくるより、日本一の高齢都市である北九州市において集中的に実験したほうが効果は上がるはずです。
 好老社会や老福都市を実現するには、まず誤った「老いの神話」というものを打破しなければなりません。老いの神話とは、高齢者を肉体的にも精神的にも衰退し、ただ死を待つだけの存在とみなすことです。この「老いの神話」は、次のようなネガティブなイメージに満ちています。すなわち、「孤独」「無力」「依存的」「外見に魅力がない」「頭の回りが鈍い」など。しかし、物事というのは何でも見方を変えるだけで、ポジティブなイメージに読み替えることが可能なのです。
 たとえば、高齢者は孤独なのではなく、「毅然としている」のだ。無力なのではなく、「おだやか」なのだ。依存的なのではなく、「親しみやすい」のだ。外見に魅力がないのではなく、「内面が深い」のだ。そして、頭の回りが鈍いのではなく、「思慮深い」のだ、といったふうにです。
 日本の神道は、「老い」というものを神に近づく状態としてとらえています。神への最短距離にいる人間のことを「翁」と呼びます。また七歳以下の子どもは「童」と呼ばれ、神の子とされます。つまり、人生の両端にあたる高齢者と子どもが神に近く、それゆえに神に近づく「老い」は価値を持っているのです。だから、高齢者はいつでも尊敬される存在であると言えます。
 アイヌの人々は、高齢者の言うことがだんだんとわかりにくくなっても、老人ぼけとか痴呆などとは言いません。高齢者が神の世界に近づいていくので、「神用語」を話すようになり、そのために一般の人間にはわからなくなるのだと考えるそうです。
 これほど「老いの神話」を無化して、「老い」をめでたい祝いととらえるポジティブな考え方があるでしょうか。「老い」とは人生のグランドステージを一段ずつ上がっていって翁として神に近づいていく「神化」に他ならないのです。  以前、ある新聞で感動的な読者からの投書を読みました。その内容は白髪のまつわるものでした。その人は五十歳すぎの女性で、十一歳のときから難病に取りつかれ、しかも誤診が重なったりして、何度も何度も「あと数日の命」とか「もうダメだ」などと言われながら、奇跡的に生きてきました。この女性が白髪を発見して「嬉しかった」と言ったそうです。「自分もやっと老人になるところまで生きのびたのだ」と感じて嬉しかったのだそうです。おそらく、この女性にとって一本の白髪は、きびしい競争を勝ち抜いて得た、特別賞のように感じたことでしょう。
 たしかに生きることは競争の連続です。考えてみれば、射精の瞬間から精子は数億倍というすさまじい競争を勝ち抜いて卵子にたどりつき、見事に受精する。でも、受精したらそれで安心ということはなくて、流産も死産もありうる。母親の胎内で十月十日の時間を経て無事に生まれたとしても、人生はつねに死の危険性に満ちています。そういう意味では、「老い」というエリアまで入ってきた競争者たちは選ばれし者であり、人生の勝利者と言ってもよいと思います。
 日本には、長寿祝いというものがあります。六十一歳の「還暦」、七十歳の「古稀」、七十七歳の「喜寿」、八十歳の「傘寿」、八十八歳の「米寿」、九十歳の「卒寿」、九十九歳の「白寿」、などです。
 そのいわれは、次の通り。還暦は、生まれ年と同じ干支の年を迎えることから暦に還るという。古稀は、杜甫の詩である「人生七十古来稀也」に由来。喜寿は、喜の草書体が「 」であることから。傘寿は、傘の略字が「 」で八十に通じる。米寿は、八十八が「米」の字に通じる。卒寿は、卒の略字の「 」が九十に通じる。そして白寿は、百から一をとると、字は「白」になり、数は九十九になるというわけです。  沖縄の人々は「生年祝い」としてさらに長寿を盛大に祝いますが、私は長寿祝いにしろ生年祝いにしろ、今でも「老い」をネガティブにとらえる「老いの神話」に呪縛されている者が多い現代において、非常に重要な意義を持つと思っています。それらは、高齢者が厳しい生物的競争を勝ち抜いてきた人生の勝利者であり、神に近い人間であるのだということを人々にくっきりとした形で見せてくれるからです。  かつて、古代ギリシャの哲学者であるソクラテスは、「哲学とは、死の学びである」と言いましたが、私は「死の学び」である哲学の実践として二つの方法があると思います。 一つは、他人のお葬式に参列することです。もう一つは、自分の長寿祝いを行なうことです。神に近づくことは死に近づくことであり、長寿祝いを重ねていくことによって、人は死を想い、死ぬ覚悟を固めていくことができます。もちろん、それは自殺とかいった問題とはまったく無縁で、あくまでもポジティブな「死」の覚悟です。
 人は長寿祝いで自らの「老い」を祝われるとき、祝ってくれる人々への感謝の心とともに、いずれ一個の生物として自分は必ず死ぬという運命を受け入れる覚悟を持つ。また、翁となった自分は、死後、ついに神となって愛する子孫たちを守っていくのだという覚悟を持つ。祝宴のなごやかな空気のなかで、高齢者にそういった覚悟を自然に与える力が、長寿祝いにはあるのです。  そういった意味で、長寿祝いとは生前葬でもあります。私は、この長寿祝いという、「老い」から「死」へ向かう人間を励まし続ける心ゆたかな文化を、ぜひ世界中に発信したいと思っています。
 そして、本当の「老いの神話」とは、みじめで差別に満ちた物語などではありません。人は老いるほど豊かになる。なぜなら、人は老いるほど神に近づくからである。この愉快で楽しい物語こそ、新しくて、本当の「老いの神話」であると示したいのです。
 冠婚葬祭業においても、婚姻件数が減り続け、葬祭会館の数が増え続けていくなかで、従来の結婚式と葬儀の二本柱のみに頼ったビジネスでは生き残り、ましてや勝ち残っていくことは難しいと言えます。そのためにも、長寿祝いの習慣を広め、そのシェアを独占することが必要です。老人会などの葬祭部門の情報をもって冠婚部門で施行する長寿祝いや法事は婚・葬共同事業と言えます。
 昨年は九月末に、サンレーグランドホテルにおいて「合同長寿祝い」を開催しました。マスコミにも取り上げられましたが、落語の独演会や日本舞踊の公演などとともに、話題の「月への送魂」も行ない、五百人を超える高齢者の方々を楽しませました。今年も十月十七日に実施します。長寿祝いの重要性と素晴らしさを多くの方々にアピールしたいと思います。
 ぜひ、「長寿祝いといえば、サンレー」と言われるようになりたい。それにしても、人様のお役に立てて、それがそのままビジネスになるのですから、私たちは何と有難い仕事をさせていただいていることでしょうか。 人老いて 翁となりて 神となる
   まことめでたし 白髪なでつつ (庸軒)