2006
04
株式会社サンレー

代表取締役社長

佐久間 庸和

「会社を動かす歯車となれ、

 会社が動けば社会が動く!」

 今年も多くのフレッシュマンとフレッシュウーマンがサンレーグループに入社してきました。心より歓迎いたします。新入社員のみなさんは、これまで学生として授業料というお金を払って勉強していました。しかし、これからは会社が給料というお金を払います。お金を貰いながら勉強するわけだから、とても恵まれています。ぜひ恵まれた環境を活かして、貪欲に色々なことを吸収していただきたい。
 新入社員だけでなく、若手社員のみなさん全員に訴えたいのは、「自己刷新」の大切さです。当社の経営方針に大きな影響を与えた世界最高の経営学者ピーター・ドラッカーによれば、人間は何をもって後世の人々に記憶されたいかを常に自問しなければなりません。 
 ドラッカーが13歳のときに、宗教の先生が「君は何をもって憶えられたいかね」と尋ねたそうです。誰も答えられませんでした。すると先生は、「答えられると思って聞いたわけではない。でも、50歳になっても答えられなければ、人生を無駄に過ごしたことになるよ」と言ったそうです。
 ドラッカーは、いつもこの問いを自らに問いかけてきたといいます。これは自己刷新を促す問いです。
 自分自身を若干違う人間として、しかし、なりうる人間として見るよう仕向けてくれる問いです。若いころ誰かにそう問いかけられた人は、運のよい人です。そして、その問いを自らに問いかけ続けていけば、自然と人生が実りあるものになるのは言うまでもありません。
 そして、自己刷新に次いで「自己啓発」が大切です。自己啓発に最大の責任を持つのは、本人であって上司ではありません。自らの成長のために最も優先すべきは、他人より優れているところ、つまり「強み」を見つけて、それを伸ばしていくことです。少し難しい言葉でいうと、卓越性の追求です。「弱み」の克服にいたずらに時間をかけるより「強み」をさらに強化した方がよい。センター試験の総得点を上げたいのなら、不得意科目の点数を上げるよりも得意科目の点数を上げる方が早くて確実だということです。もっとも程度にもよりますが。
 人は成長しなければなりません。成長するには、ふさわしい組織でふさわしい仕事につかなければなりません。
 成長に必要なものは責任です。あらゆるものがそこから始まります。大切なのは肩書きではなく、責任なのです。責任を持つということは、「仕事にふさわしく成長したい」と言えるところまで真剣に仕事に取り組むことです。「責任」に焦点を合わせるとき、人は自らについてより大きな見方をするようになります。
 三人の石切り工の話があります。ある人が、教会建設のための石を切っている三人の男に「何をしているのですか」と聞きました。一人目の男は「暮らしを立てている」と答え、二人目の男は「石切りの仕事をしている」と答え、三人目の男は「教会を建てている」と答えました。わが社に必要な人物は、もちろん第三の男です。この男こそ、将来の幹部候補です。
 第一の男は、仕事で何を得ようとしているかを知っており、事実それを得ています。一日の報酬に対し、一日の仕事をします。だが、管理職ではありません。将来も管理職にはなれません。
 問題は第二の男です。熟練した専門能力は不可欠です。たしかに組織は、最高の技術を要求しなければ二流の存在になってしまいます。しかしスペシャリストは、単に石を磨き脚柱を集めているにすぎなくとも、重大なことをしていると錯覚しがちです。専門能力の重要性は強調しなければなりませんが、それは全体のニーズとの関連においてでなければなりません。成長し、自己啓発する者とは、「教会を建てている」と言える人間なのです。
 また新入社員のみなさんにぜひ言っておきたいことがあります。それは、あなた方は歯車だということです。こう聞くと、意外に思ったり、失望する人がもしかしたらいるかもしれません。一般に「歯車」という言葉は良いイメージを持たれないようです。よく鉄道ガード下の居酒屋などで、酔ったサラリーマンがチューハイか何かを片手に後輩相手にクダを巻いている場面を目にします。「どうせ俺たちなんか、会社の歯車だからよー!馬鹿らしくって、やってらんねーよなー!」とか何とか言いながら。テレビドラマなどでもよく目にするまことにありふれた光景ですが、こんなとき、いつも私は腹が立って仕方ない。
 会社員が会社の歯車なのは当たり前の話ではありませんか。部下だって上司だって、いや社長だって会社の歯車です。仕事であれスポーツであれ、組織を構成する個々人はすべて歯車なのです。大リーグのイチローも、サッカーの中田英寿も、みんなチームの歯車です。でも、彼らは単なる伝達歯車ではなく、チームを動かす駆動歯車です。ですから、新入社員のみなさんも、ぜひ会社を動かすような歯車になっていただきたい。会社人は、組織の歯車であることを強く自覚し、歯車に徹することによって、会社のなかで光り輝くのです。
 そして、会社は社会の歯車です。みなさんが会社を動かせば、今度は社会が動きます。もともと「会社とは社会のもの」であると私は考えていますが、仕事をしていくうえで社会の役に立つことが何よりも大切です。私は、単なるボランティア精神ではなく、社会や人々の役に立つことをすればビジネスでも必ず成功できると確信しています。
 いくらユニークな商品を開発しても、それを使って喜ぶ人がいなければ社会的な価値は生まれません。たとえ日常的にありふれたものでも、それを必要とする人がいれば、そこに大きな需要が生まれます。だから、多くの人々が待ち望んでいることを目標にする方が成功しやすいのは当然の話なのです。
 例えば、宅急便が登場する以前は、今日出した荷物が明日届くとは誰も考えませんでした。それが一日で届くようになると、生活はたいへん便利になり、ビジネスのスピードも一気に上がりました。
 コンビニエンスストアも、私たちのライフスタイルを大きく変えました。夜遅くまで簡単に生活必需品が手に入ることによって、多くの人たちが助かっています。これらの事業は今や社会的なインフラになっています。その潜在的な需要の大きさに驚かされますが、逆に言うと、それだけ人の役に立つビジネスであったからこそ成功したのです。
 このように会社とは社会の役に立つために存在しているとさえ言えますが、その会社はさまざまな役割を果たす部門および社員から成り立っています。日本電産社長の永守重信氏は「会社とは終わりのないドラマ」だと言っています。最初はまったくの白紙状態から、スタッフを集めてどんなドラマをつくるのかというイメージを描き、シナリオをつくってキャストを選んでいく。演劇やテレビのドラマなら本番が終わればそれですべてが終了しますが、会社の場合はエンドレスで、毎日がリハーサルと本番の繰り返しです。
 各部門や社員一人ひとりには、ドラマと同じように役が与えられます。その役を見事に演じきった人は喜びや満足感も大きくなりますが、全員の心が一体化すれば、それよりもはるかに大きい感動があります。しかし、なかに一人でも「どうせ、つくりものだから」と手を抜いたり、照れながら演技する人間がいると、すべてはぶち壊しになってしまうのです。
 また、会社人として仕事をしていくうえで「ミッション」というものが非常に重要です。もともとキリスト教の布教を任務として外国に派遣される人々を意味する言葉でしたが、現在はより一般的に、何らかの任務を担って派遣される使節団やそうした任務のもの、あるいは「社会的使命」を意味するようになってきています。ミッション経営とは、社会について考えながら仕事をすることであると同時に、顧客のための仕事を通して社会に貢献することです。すなわち、顧客の背後には社会があるという意識を持つ経営です。
 ドラッカーは「仕事に価値を与えよ」と力説しましたが、これはとりもなおさず、その仕事の持つミッションに気づくということに他ならないでしょう。当社は冠婚葬祭業を営む会社ですが、私は、この仕事くらい社会的に価値のある仕事はないと心の底から思っています。2001年10月の社長就任以来、「冠婚葬祭業とは哲学産業であり、芸術産業であり、宗教産業である」と訴えてきました。また、労働集約型産業から知識集約型産業を経て、思いやり・感謝・感動・癒しといったポジティブな心の働きが集まった「精神集約型産業」をめざすと公言してきました。さらには、「結婚は最高の平和である」と「死は最大の平等である」を二大テーゼに、結婚式や葬儀の一件一件が実は「世界平和」「人類平等」というこの上ない崇高な理念を実現する営みなのだと説き続けてきたのです。
 ミッションを明確に成文化して述べることを「ミッション・ステートメント」といいます。わが社では「S2М」がそれに当たります。サンレーの使命も目的も夢も志もすべて込められています。ぜひ、みなさんは「S2М」の内容を一日も早く暗記して下さい。
 最後に新入社員のみならず全社員に訴えたいことがあります。志の大切さです。冠婚葬祭業の全国組織である全互協の新年会で、初代会長を務めた佐久間会長が乾杯の音頭をとったときも、「この仕事の志を思い起こそう」と呼びかけていました。結局、最も大切なものは「志」であると私も思います。
 志とは心がめざす方向、つまり心のベクトルです。行き先のわからない船や飛行機には誰も乗りたがらないように、心の行き先が定まっていないような者には誰も共感しないし、ましてや絶対について行こうとはしない。
 志に生きる者を志士と呼びます。幕末の志士たちはみな、青雲の志を抱いていました。吉田松陰は、人生において最も基本となる大切なものは、志を立てることだと日頃から門下生たちに説いていました。そして、志の何たるかについて、こう説明しました。「志というものは、国家国民のことを憂いて、一点の私心もないものである。その志に誤りがないことを自ら確信すれば、天地、祖先に対して少しもおそれることはない。天下後世に対しても恥じるところはない」
 また、志を持ったら、その志すところを身をもって行動に表わさなければなりません。その実践者こそ志士であるとする松陰は、志士の在りよう、覚悟というものをこう述べました。「志士とは、高い理想を持ち、いかなる場面に出遭おうとも、その節操を変えない人物をいう。節操を守る人物は、困窮に陥ることはもとより覚悟の前で、いつ死んでもよいとの覚悟もできているものである」
 私は、志というのは何よりも「無私」であってこそ、その呼び名に値すると思っています。松陰の言葉に「志なき者は、虫(無志)である」というのがありますが、これをもじれば、「志ある者は、無私である」と言えるでしょう。
 よく混同されますが、夢と志は違います。「自分が幸せになりたい」というのは夢であり、「世の多くの人を幸せにしたい」というのが志です。夢は私、志は公に通じているのです。自分ではなく、世の多くの人々です。「幸せになりたい」ではなく「幸せにしたい」です。この違いが重要なのです。
 会社もしかり。もっとこの商品を買ってほしいとか、もっと売上げを伸ばしたいとか、株式を上場したいなどというのは、すべて私的利益に向いた夢にすぎません。そこに公的利益はありません。社員の給料を上げたいとか、待遇を良くしたいというのは、一見、志のようではありますが、やはり身内の幸福を願う夢の延長であると言えるでしょう。
 真の志とは、あくまで世のため人のために立てるものなのです。こういった基本中の基本を社会人としてのスタート時に知ったみなさんは、きっと色々な意味で大丈夫だと、私は信じています。

 人はみな歯車と知れ
   われ動き会社動けば社会動く  庸軒