2006
06
株式会社サンレー

代表取締役社長

佐久間 庸和

「感謝の心が人生を切り拓く

 冠婚葬祭業は、ありがとう産業だ!」

 今月は、「感謝」についてお話したいと思います。
 「ありがとう」という気持ちを持ち続けていれば、不平、不満、怒り、怖れ、悲しみなんか自然に消えてなくなる...これは、異色の哲学者として多くの指導者を教えた中村天風の言葉です。私たちは、感謝すべき出来事があって、その後に感謝するのが普通です。しかし、天風は、「とにかく、まずはじめに感謝してしまえ」と教えました。いま、ここに「生きている」というだけでも、大きな感謝の対象になるというのです。
 しかし、「感謝を先にしろ」と言われても、なかなかできるものではありません。ここで天風の教えは非常に実践的です。どうしたら感謝本位の生活ができるのかに言及し、それが「三行」の生活としてまとめられています。わかりやすく言うと、正直・親切・愉快に日々過ごしていくことです。この三つの行いを実践することによって、感謝することが容易にできるようになっていくというのです。
 古今事を成した人の共通点の一つに、感謝の念が強いということがあります。
 中国の歴代皇帝のうち最も人気のあるのは後漢の光武帝と言われています。その事蹟や人物などが抜群に優れていたことにもよりますが、建国の功臣に心から感謝の意を示し、その老後まで配慮している点に多くの人の心が魅かれるのです。光武帝は功臣の晩年を全うさせるため、老後は戦争に関係させず、みな諸侯に列し、立派な邸宅に住まわせ、政局に当たらせないようにしました。そのため諸侯、諸将は名誉を損なうことなく安楽に生涯を終えたといいます。これに対し、前漢の劉邦の功臣は、身の危険を感じていち早く仙人修行と称して雲隠れした張良以外はいずれも悲惨な最期を遂げています。
 感謝の念は「ありがとう」という一語に集約されますが、この言葉はどこの国にもあります。それは、「ありがとう」が人間にとって非常に大切なものだからです。
「お金」はなくても何とかなるが、これがなくては生きていけないというぐらい大切なものなのです。
 「ありがとう」と言われた人は気分がいいし、「ありがとう」と言った人も気分がいい。こんなにお互いに「いい気分」になるのであれば、もっともっと「ありがとう」という言葉を使うべきでしょう。金もかからず手間もいらず、こんなに便利なものはありません。それで、みんなが元気になれれば、こんなに幸せなこともありません。
 「ありがとう」は人生に成功をもたらす魔法の言葉です。ヒューマンウェア研究所所長の清水英雄氏は著書『「ありがとう」戦略』において、人生の意味、成功の鉄則、幸福にいたる道筋などをすべて突きつめて、最後にたどり着く、たった一つの言葉が「ありがとう」であると述べています。この「ありがとう戦略」については佐久間会長が何度も語っているので、みなさんも記憶していることと思います。
 「ありがとう」戦略とは何か。たった五文字の「ありがとう」の中に、実は宇宙調和・世界平和・国家安寧・商売繁盛・先客万来・起業繁栄・家運隆盛・家内安全・自由平等・健体康心、あらゆる成功の原理原則・思想・哲学が余すところなく内包されている。その意味で、「ありがとう」こそが、揺らぐことのない不動の「戦略」であるというわけです。
 言葉には霊力とでもいうべき不思議なエネルギーが宿っており、これを「言霊(ことだま)」といいます。『万葉集』で山上憶良が「言霊の幸はふ国と語り継ぎ言ひ継がひけり」と歌を詠んだように、古来、日本は言霊の霊妙な働きによって幸福がもたらされる国と語り伝えられてきました。
 言霊信仰は決して迷信ではありません。縁起のよい言葉を使っていれば順調に事が運び、縁起の悪い言葉を使っていれば不幸を招いてしまうというのは、心理学的にも事実であることを多くの人々が証明しています。
 したがって、ピンチや逆境に陥ったからといって、言葉づかいまで消極的で否定的になってはなりません。むしろピンチや逆境のときこそ、積極的で肯定的な言葉づかいをするよう心がけなければなりません。それらの言葉に含まれる強力な言霊エネルギーが、実際にピンチをチャンスに変えてくれるからです。
 ピンチはチャンスであり、うまくいってもいかなくても、いつも「ありがとう」と言う気持ちが大切です。うまくいかないとき、ピンチ・逆境・苦労・困難にこそ「ありがとう」と心から感謝する。ピンチを、自己の人格や品格を磨き高める絶好のチャンスとして積極的・肯定的にとらえる。そうすれば、苦労したぶんだけ、強くたくましくなれます。また、他人にも優しくなれます。むしろ逆境に感謝し、太陽のように明るく、元気、陽気、勇気、本気を発揮して邁進(まいしん)していくことができるのです。
 人生には一つのムダも、一つのマイナスもありません。起こっていることすべてには意味があり、みんな「有ること」が「難しい」ことに「当たる」から「有難当(ありがとう)」なのだと清水氏は述べます。
 この考えは、イトーヨーカ堂名誉会長である伊藤雅俊氏の商売哲学にも通じます。伊藤名誉会長は、母上から「お客様は来てくださらないもの」「取引先は商品を卸してくださらないもの」「金融機関はお金を貸してくださらないもの」という教えを受けたそうです。
 この世に「当たり前」は何一つとしてありません。すべてが「有り難い」ことなのです。たとえば、今は苦しくても、お店がまがりなりにもここまでやってこれたのは、「来てくださらない」はずのお客様がわざわざ買いに来てくださり、「商品を卸してくださらない」はずの取引先が卸してくださり、「お金を貸してくださらない」はずの金融機関が融資してくださった「有り難い」お力添えのお陰があったからこそなのです。
 その「ありがとう」の根本がわかれば、自ずからお客様のため、地域のために役立つよう一生懸命働こうという気持ちになってきます。それがまたお客様や地域の人々の共感を呼び起こし、お店はますます繁盛へと好循環していくことになるのです。
 感謝の念は挨拶というものに表れます。挨拶も言霊に通じますが、これが少なくなってきたことが現代の日本社会の頽廃の一因です。
 食事のときでさえ、「いただきます」や「ごちそうさま」と言わない者が多い。この二つの挨拶は仏教に由来するものですが、日本人の精神世界にとってきわめて重要な言葉です。
 「いただきます」というのは、私たちのために尊い命を捧げてくれる動物や植物に対して、あなた方の命をいただきますという、お詫びと感謝の気持ちを込めた言葉です。
 また「ごちそうさま」は、漢字で「御馳走様」と書きます。これは、私たちをもてなすために山野を馳せ回って食材を集め、心を込めて料理をつくってくれたり運んでくれたりしたことへの感謝を表しています。
 つまり、日本人にとって「いただきます」と「ごちそうさま」は、「ありがとうございます」と同義語なのです。そして、手を合わせて食事の前と後にこの二つの言葉を発声するのは当たり前のことなのです。
 ところが、こんな実話があります。ある小学校で給食のときに担任の先生が「いただきます」「ごちそうさま」と言うように生徒に指導したところ、それを聞いた親が苦情を言ってきたのです。その親の言い分は、「子どもの給食費は自分たちが毎月きちんと払っているのに、なぜ感謝の言葉を言わなければならないのか」というものだったといいます。
 この話を聞いたとき、私は怒髪天を突くほど腹が立ちました。何たる馬鹿親!
 当然ながら、これは金の問題などではありません。現在、世界中で5歳未満の子どものうち、一日当たり3万人が予防可能な病気で命を失っていますが、そのうちの半数が飢餓による栄養失調が原因とされています。その痛ましい現実を知れば、「金を払っているのだから、感謝する必要はない」という考えの、いかにエゴイスティックで傲慢なことでしょうか!
 子どもには、とにかく感謝の心を徹底して教えなければなりません。それが親の最大の務めであるとさえ私は思います。それには、家の中にある神棚や仏壇を拝むことが効果的だとされています。最近では神棚・仏壇のない家が多くなりましたが、昔から日本人は手を合わせて拝むことで神仏への信仰を態度で表明してきました。
 神棚や仏壇の前で、おじいさん、おばあさん、お父さん、お母さんが手を合わせる。それを見た子どもが、この家には祖父母や両親よりも偉い存在がいるのだと、理屈を超えて神様や仏様を感じ、敬虔な気持ちを抱くようになります。大人が手を合わせて拝んでいる姿を見ながら育った子どもは、間違った道には踏み出しにくいものです。実際、神棚や仏壇のある家には、道を外れる子どもはまず出ません。逆に、道を外れる子どものいる家庭には、まったくといっていいほど神棚・仏壇などの手を合わせる対象がないとされています。子どもにとって、大人が神仏といったサムシング・グレートを謙虚に拝む姿を見ることが、いかに重要かということがわかります。
 神仏に次いで、先祖も感謝の大きな対象です。儒教の影響もあり、日本人は先祖供養を大切にします。
 日本は、八百万(やおよろず)の神の国です。この世に存在するあらゆるものにはみな神が宿り、尊い命があり、私たちはその命に支えられ生かされている。そして、尊い命が、その役割が終えたとき、「ありがとう」と心から感謝を捧げる。それが「供養」です。
 「供養」という言葉は、最初は「尊敬」を意味する仏教用語でした。現在では、仏・法・僧の三宝に物品を提供すること、礼の対象に香花を手向けること、死者に供物を献じてその霊を慰める意味となっています。ふぐ供養や針供養などもありますが、さまざまな「供養」の中でも、日本人が最も大切にしているのが、ご先祖様への供養です。清水英雄氏は、次のように書いています。
「私が今こうして存在するには、いったい何人のご先祖様が必要か。両親から順にたどって、十代前、二十代前、三十代前...と計算していくと、四十代前(一世代をおよそ二十五年と計算すると千年前、にほんでは平安時代の後期)では、実に約一兆一千億人。しかも人類の歴史は五百万年以上といわれているから、文字どおり天文学的な数字になる」
 このうちのたった一人でも欠ければ今の自分はありません。おびただしいご先祖様からの命のリレーで生かされて今があるのです。まさに「有り難い」存在ではありませんか。だから日本人は、春・秋のお彼岸にはお墓に参り、お世話になったあまたのご先祖様を供養する。
 そして、冠婚葬祭という営みこそ、感謝を「かたち」にしたものに他なりません。最近ではハウスウェディングに代表されるように、自分たちを主役と勘違いした新郎新婦が増えてきましたが(それとともに離婚も増えましたが)、結婚式とはもともと両親や参列者に対して新郎新婦が感謝を表明する行事です。
 また、葬儀とは故人に対して哀悼の意とともに感謝の意を表す儀式です。ですから、結婚式の花嫁の手紙でも、葬儀の友人代表の弔辞でも、最後の一文は「ありがとうございました」という言葉が圧倒的に多いわけです。
 通過儀礼もしかり。初宮参りにしろ、七五三にしろ、成人式にしろ、いずれも神様に「ありがとうございます」と感謝を述べる儀式です。冠婚葬祭こそは、人々が「ありがとう」と言う最大の機会となっているのです。
 つまり、冠婚葬祭業とは「ありがとう」産業なのです!私たちの日々の仕事は、世の人たちが「ありがとう」と言う回数、感謝する回数を増やしているのです。まず、私たち自身が神仏、先祖、両親に対して感謝の念をしっかりと抱くことが大切であり、それとともにサンレーの会員様、お客様に対して「ありがとうございます」の心を忘れてはなりません。その感謝の心を「サンクス・フェスタ」などで表すとともに、日本中、いや世界中にひとつでも多くの「ありがとう」を増やしていこうではありませんか!
 ありがとう すべてのものに ありがとう
   君に出会えた 奇跡をはじめ  庸軒