2006
07
株式会社サンレー

代表取締役社長

佐久間 庸和

「感動は、どこから生まれるのか?

 愛と死をみつめる者は誰か?!」

 「感動」は、今やメディアにとって重要な商品となっています。最近はサッカーのワールドカップで盛り上がりましたが、オリンピックにしろ、何年かするとその季節がやってきます。野球のWBCも加わりましたね。メディアは競って感動の名場面をテレビ画面いっぱいに映し出し、新聞の紙面は「勝利の一瞬」で飾られます。
 スポーツだけではありません。白血病という難病に冒されたというストーリーの純愛小説『世界の中心で、愛をさけぶ』に多くの人々が感動しました。小説は300万部を売り上げ、映画の宣伝には「見た人の80%が泣いた!」という文言が飾られていました。
 「韓流(はんりゅう)」も多くの日本人の間に感動を呼びました。ヨン様ことぺ・ヨンジュンが主演したドラマ「冬のソナタ」に多くの人々が涙を流しました。同じく彼が主演した映画「四月の雪」や「八月のクリスマス」など、韓国映画には感動の名作がたくさんあります。
 韓国映画に限らず、ハリウッド映画である「タイタニック」や「きみに読む物語」にしろ、日本映画の「ホタル」や「男たちの大和」にしろ、ハンカチなしには観れない人が多かったようです。
 これらの映画には、ある一つの共通項があります。すべての作品が、「愛」と「死」の二つのテーマを持っていることです。考えてみれば、古代のギリシャ悲劇からシェークスピアの『ロミオとジュリエット』、伊藤左千夫の『野菊の墓』といった古今東西の感動の名作は、すべて「愛」と「死」をテーマにした作品であることに気づきます。「愛」はもちろん人間にとって最も価値のあるものです。ただ、「愛」をただ「愛」として語り、描くだけではその本質は決して見えてきません。そこに登場するのが、人類最大のテーマである「死」です。「死」の存在があってはじめて、「愛」はその輪郭を明らかにし、強い輝きを放つのではないでしょうか。「死」があってこそ、「愛」が光るのです。そこに感動が生まれるのです。
 逆に、「愛」の存在があって、はじめて人間は自らの「死」を直観できるとも言えます。ラ・ロシュフーコーに「太陽と死は直視できない」という有名な言葉がありますが、たしかに太陽も死もそのまま見つめることはできません。しかし、サングラスをかければ太陽を見ることはできます。同様に「死」という不可視の存在を見るためのサングラスこそ「愛」ではないでしょうか。死ぬのは怖いし、自分の死をストレートに考えることは困難です。しかし、愛する恋人、愛する妻や夫、愛する我が子、愛する我が孫の存在があったとしたらどうでしょうか。もしかしたら、愛する祖国という場合もあるかもしれません。人は心から愛するものがあってはじめて、自らの死を乗り越え、永遠の時間を生きることができるのです。
 いずれにせよ、「愛」も「死」も、それぞれそのままでは見つめることができず、互いの存在があってこそ、見つめることが可能になります。そして、「愛」と「死」に真正面から向き合った素晴らしい作品が日本にあります。その名も、『愛と死をみつめて』です。若い男女の往復書簡集ですが、私が生まれた年である1963年に刊行され、大ベストセラーとなりました。最近、だいわ文庫から新編集版が出ましたが、これも大変売れています。
 21歳の若さで顔面の軟骨肉腫という不治の病と闘いながらも彼のために生きようとしたミコこと大島みち子さん。それを遠く離れた東京から手紙で支えるマコこと河野実さん。お互いを想うあまりの嘘や自殺未遂をも乗り越えた二人でしたが、遂にはミコが帰らぬ人となります。3年1カ月の間に二人が交わした手紙は約400通にものぼりました。
 後の『世界の中心で、愛をさけぶ』の元型とされ、セカチュー同様に映画化やドラマ化もされました。セカチューは創作ですが、こちらは正真正銘の事実です。それだけに物語の重みも感動の大きさもセカチューの比ではありません。ちなみに映画では、ミコを吉永小百合、マコを浜田光男が演じました。今年の3月に放送されたドラマでは、ミコを広末涼子、マコを草 剛が演じて、大きな反響を呼びました。
 だいわ文庫版の最初のページには、次のようなミコの手紙の一節が紹介されています。
「マコ、貴女は私の何なのでしょう。 将来、一緒に暮らせる望みなどこれっぽっちもないのに、世間の恋人たちのように一度だって腕を組んで歩くこともないのに、おそらく生涯病院で過ごしてしまう私を、いつも暖かく包んで下さる貴方。 そんな貴方を、ただ、世間の人たちと同じように恋人です、なんていっていいのでしょうか。 マコは私の神様かもしれませんネ。 幾人かの人たちは信仰を勧めてくれます。 でも私は、マコだけを信じていれば充分のような気がしますもの。」
 この、あまりにも健気で、あまりにも悲しい手紙を読み、私は泣けて仕方がありませんでした。こんなピュアな心を誰が持っているでしょうか。また、ミコの日記である『若きいのちの日記』がやはり文庫化されていますが、その冒頭にはこう書かれています。
「病院の外に、健康な日を三日下さい。一日目、私は故郷に飛んで帰りましょう。そして、おじいちゃんの肩をたたいて、それから母と台所に立ちましょう。おいしいサラダを作って、父にアツカンを一本つけて、妹達と楽しい食卓を囲みましょう。二日目、私は貴方の所へ飛んで行きたい。貴方と遊びたいなんて言いません。おへやをお掃除してあげて、ワイシャツにアイロンをかけてあげて、おいしいお料理を作ってあげたいの。その代わり、お別れの時、やさしくキスしてね。三日目、私は一人ぽっちで思い出と遊びます。そして静かに一日が過ぎたら、三日間の健康ありがとう、と笑って永遠の眠りにつくでしょう。」
 この文章にも大いに泣けました。もうおわかりのように、私は非常に涙もろい人間です。感動する話を聞いても、映画を観ても、すぐに涙が溢れ出てしまいます。
 社員の頑張りや仕事への熱い想いなどに触れたときにも、涙腺がよくゆるみます。でも、私の涙に気づいた社員のみなさんは、何か悪いものでも見たかのようにあわてて目をそらすことが多いですね。おそらく、「社長ともあろう者が、泣くなんて」と驚いているのでしょう。一般に大人の男は涙など流すものではないとされています。
 しかし、昔の武士などはよく泣いたようです。武田信玄の『甲陽軍艦』には、「たけき武士は、いづれも涙もろし」とあります。戦に勝ったといっては泣き、仲間が生き残っていたといっては泣いたようです。偽りや飾りのきかない、掛け値なしの実力稼業。それは、情緒、感動においてもむきだしのあるがままに生きることでした。
 時代は下って江戸時代の末期、つまり幕末の志士たちもよく泣いたようです。吉田松陰なども泣癖があったとされている。松陰は、仲間と酒を飲み、酔って古今の人物を語るのを好みましたが、話題が忠臣義士のことにいたると、感激のあまりよく泣いたといいます。
 坂本龍馬もよく泣いた人でした。かの薩長連合がまさに成立せんとしたとき、薩摩藩の西郷隆盛を前にした桂小五郎が、長州藩の面子にこだわりを見せました。その際、龍馬は、「まだその藩なるものの迷妄が醒めぬか。薩州がどうした、長州がなんじゃ。要は日本ではないか。小五郎」と、すさまじい声で呼び捨てにし、「われわれ土州人は血風惨雨...」とまで言って、絶句したといいます。死んだ土佐の同志たちのことを思って、涙が声を吹き消したのです。そして、次の有名な言葉はおそらく泣きじゃくりながら言い放たれました。「薩長の連合に身を挺しておるのは、たかが薩摩藩や長州藩のためではないぞ。君にせよ西郷にせよ、しょせんは日本人にあらず、長州人・薩摩人なのか」
 この時期の西郷と桂の本質を背骨まで突き刺した龍馬の名文句であり、事実上この時に薩長連合は成ったと言えますが、西郷や桂を圧倒した龍馬の涙の力も大きかったと思います。龍馬をめぐるエピソードで涙に関するものがもう一つあります。徳川幕府の最後の将軍、徳川慶喜が古い政治体制の終焉によって大きな混乱と犠牲が日本の社会に強いられることを避けようと大政奉還する決意をしたとき、それを後藤象二郎からの手紙によって知った龍馬は、顔を伏せて泣いたといいます。龍馬が泣いていることに気づいた周りの志士たちは、無理もないであろうとみな思いました。この一事の成就のために、龍馬は骨身をけずるような苦心をしてきたことを一同は知っていたのです。しかし、龍馬の感動は別のことでした。やがて龍馬は、泣きながらこう言いました。
「大樹公(将軍)、今日の心中さこそと察し奉る。よくも断じ給へるものかな、よくも断じ給へるものかな。予、誓ってこの公のために一命を捨てん」龍馬はそう言いながら慶喜の自己犠牲の精神をたたえて、さらに涙を流したといいます。そのときの言葉と光景は、そこにいた中島作太郎や陸奥陽之助たちの生涯忘れえぬ記憶になっています。龍馬が画策した革命の流れの中で、大方の革命に必然な血なまぐさい混乱を慶喜が自ら身を退くという犠牲によって回避したということを、革命の仕掛け人である龍馬こそが他の誰よりも評価したに違いありません。その慶喜の心中を想うと大きな感動が湧いてきて、龍馬に涙を流させたのでしょう。
 NHKの人気番組「プロジェクトX」などにも、前例のないプロジェクトに見事成功し、立ち会ったスタッフ一同が手を握り合って喜びの涙を流したというエピソードがよく出てきました。近代日本における最大のプロジェクトXこそ「明治維新」に他なりませんが、それを用意した「薩長連合」および「大政奉還」が成った際に流した龍馬の涙の濃さ、熱さを想うと、それだけで泣き虫の私は涙が出そうになります。いつか私も、龍馬のように歴史に残る感動の涙を流してみたいものです。
 龍馬のエピソードは司馬遼太郎の名作『竜馬がゆく』に詳しいですが、同じく司馬の『翔ぶが如く』を読むと、西郷隆盛もよく泣いたことがわかります。彼ら維新の志士たちは司馬遼太郎の表現を借りれば、「巨大な感情量の持ち主」だったのでしょう。
 人間は近代に入ると泣かなくなりました。中世では人はよく泣きました。中世よりもはるかに下って松陰や龍馬や西郷の時代ですら、人間の感情量は現代よりもはるかに豊かで、激すれば死をも怖れぬかわり、他人の悲話を聞いたり、国家の窮迫を憂えたりするときは、感情を抑止することができなかったようです。
 日清・日露戦争当時の軍人や大臣といった人々でもそうで、日本海海戦に勝ったと言っては泣き、つらい任務を引き受けてくれると言っては泣き、それも相抱いて、おいおい泣いています。とにかく昔の武士や軍人はよく泣きました。ところが後世になるほど、感動や感激がなくなって、泣かなくなってしまったのです。
 現代では、結婚式や葬儀といった場面において、人は最もよく泣くと言えます。もちろん、それは喜びの涙や悲しみの涙でもありますが、参列者においては明らかに感動の涙が多いと思います。もともと冠婚葬祭とは、人々の共感を生み出す装置であると私は考えています。特に、披露宴で花嫁さんが声をつまらせながら両親への感謝の手紙を読む場面や、告別式で故人への哀悼の念が強すぎて弔辞が読めなくなる場面などでは、非常に強大な共感のエネルギーというものを感じます。
 感動が共感を生み、そこから「心の共同体」とでも呼ぶべき波動が現われてくるのです。感動を呼び起こすものは、スポーツや本や映画だけではない。冠婚葬祭こそは感動の最大の舞台なのです。
 考えてみれば、結婚式と葬儀という「愛」と「死」のセレモニーに携わる私たちは、日々、愛と死をみつめて生きています。冠婚葬祭業ほど、愛と死をみつめる仕事はありません。私たちは、感動のプロフェッショナルなのです。

  愛と死をみつめて生きる者こそが 
      感動満つる世をひらくなり  庸軒