2012
01
株式会社サンレー

代表取締役社長

佐久間 庸和

「無財の七施とは何か?

 いま、ブッダの考え方を知ろう」

無財の七施

 昨年11月18日に行われた創立45周年記念式典では、佐久間会長の訓話の中に「無財の七施」というものが登場しました。
 今回は、その「無財の七施」について復習したいと思います。仏教には、財施(ざいせ)、法施(ほうせ)、無畏施(むいせ)という三つの「布施の行」があるとされています。それぞれ「施すべき財」「説くべき教え」「恐れを取り除く力」という意味ですが、これらがなければ布施の行ができないかというと、そうではありません。
 たとえ地位や財産がなくても、誰もがいつでも実行できる布施の行、それが「無財の七施」なのです。

誰でも行える布施の行

「無財の七施」とは、次の七つの施しです。
一.眼施(がんせ)。「慈眼施(じがんせ)」ともいいますが、慈しみに満ちた優しいまなざしで相手に接することです。
二.和顔施(わがんせ)。「和顔悦色施(わがんえつしきせ)」ともいい、いつも和やかで穏やかな顔つきで相手に接することです。
三.愛語施(あいごせ)。「言辞施(ごんじせ)ともいい、文字通り優しい言葉、思いやりのある態度で言葉を交わすことです。
四.身施(しんせ)。「捨身施(しゃしんせ)」ともいい、自分の身体で奉仕をすることです。
五.心施(しんせ)。「心慮施(しんりょせ)」ともいい、他人のために心を配り、その喜びや悲しみに深く共感することです。
六.牀座施(しょうざせ)。自分が疲れていても電車の座席を他人に譲ったり、競争相手に自分の地位を譲っても悔いなく過ごすことをいいます。
七.房舎施(ぼうしゃせ)。風や雨露をしのぐ所を他人に与えることです。また、自分が濡れながらも、相手が雨に濡れないように傘をさしてやるような思いやりの行為です。

「思いやり」を形にする

 これら「無財の七施」は、いずれも、わたしたちの仕事にとって必要なものばかりだということに気づきます。
 小笠原流礼法や江戸しぐさにも通じる「思いやりの作法」であり、さらには「ホスピタリティ」そのものでもあることがわかります。
  「無財の七施」は仏教の言葉ですが、仏教における「慈悲」とは「思いやり」という意味に他なりません。キリスト教の「愛」、また儒教の「仁」まで含めて、すべての人類を幸福にするための思想における最大公約数とは、「思いやり」の一語に集約されるでしょう。そして、その「思いやり」を形にしたものが「礼」や「ホスピタリティ」なのです。
 二つとも、わが社のキーワードになっています。洋の東西の違いはあれど、「礼」も「ホスピタリティ」もともに、「思いやり」という人間の心の働きで最も価値のあるものを形にすることに他なりません。

ブッダの考え方を知る

 昨年を振り返ると、やはり3月11日に発生した東日本大震災が真っ先に脳裏に浮かんできます。
 わたしたち日本人は未曾有の大災害に直面しました。想定外の大津波と最悪レベルの原発事故のショックは、いまだ覚めない悪夢のようです。
 そんな先行きのまったく見えない時代で、わたしは仏教を開いたブッダの考え方をよく知る必要があると思います。ブッダの考え方には、現代に生きるわたしたちが幸せになるためのヒントがたくさんあります。
 仏教は、正義より寛容の徳を大切にします。いま世界で求められるべき徳は正義の徳より寛容の徳、あるいは慈悲の徳です。
 この寛容の徳、慈悲の徳が仏教にはよく説かれているのです。わたしは、人類文明が曲がり角に来ている中で仏教の思想、つまりブッダの考え方が世界を救うと信じています。

「こころ」だけが残された

 かつて、この国で起こった大地震は、日本人の「こころ」にも深い影響を与えました。
 鴨長明は、1185年に発生した都の大地震の経験を『方丈記』に書き記し、日蓮は1257年に起こった鎌倉大地震の経験を背景にして、有名な『立正安国論』を書きました。
 長明は『平家物語』にもつながる無常観を打ち出し、日蓮は法華経の思想を広めました。二つの大地震が、日本における仏教思想を広めたという部分があると言えるでしょう。
 このたびの東日本大震災では、ブッダの考え方が強く求められるのではないでしょうか。というのも、これまでと違って、日本人は地震や津波といった天災のみならず、原子力発電所の事故という一種の人災を経験したからです。そして、それによって国民の警戒心が強くなりました。地震や津波や原発事故の後に、日本人のむき出しの「こころ」だけが残されたように思います。

「我有り」から「我無し」へ

 わたしたちは、これまで人類史上最大の発明といってもいい電力の恩恵にあずかってきました。電力によって、この世から闇をなくし、暑さ寒さを克服し、あらゆる情報を伝える手段を手に入れることができました。
 電力によって、わたしたちの文明は「我有り」という欲望を充足させてきたわけです。
 消費を基本としたこうした生活は、資源の無駄、環境破壊などを招き、人類の滅亡という最悪のシナリオも、もはや絵空事とは思えない事態になってきました。
 ブッダの生き方と教えには普遍的価値があります。そして、驚くほど現代的です。ブッダは「我有り」ではなく「我無し」を求めて生きました。今一度、わたしたちはブッダの「我無し」という考え方を見つめ直すときに来ているのではないでしょうか。
  「我無し」と心から悟ったときに「無財の七施」も完全に身につくように思います。

 ありがたき仏陀の教へ今にこそ
     七つの布施で生かすべきかな (庸軒)