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一条真也
「古代中国は好老社会だった」

 

 現代の日本社会が「嫌老好若社会」であると訴えた作家の堺屋太一氏は、著書『高齢化大好機』において、ギリシア・ローマの伝統を引く西洋のみならず、東洋でも古代には「若さ」が好まれたと述べています。そして、その代表例として古代中国をあげています。
 司馬遷の『史記』には、たくさんの肉をたいらげて若ぶる老将や髪と髯(ひげ)を黒く染めて出陣する将軍の話が出てきます。戦国時代から漢の時代にかけては、若く見せるための手法がよく使われていたというのです。しかし、「団塊の世代」の名付け親であり、元経済企画庁長官でもある堺屋氏にたてつくわけではありませんが、こうしたエピソードだけで古代中国を「好若社会」と決めつけるのには大反対です。
 わたしは、古代中国こそ古代エジプトと並ぶ、大いなる「好老社会」であったと思います。湯川秀樹博士なども言っていますが、中国では古代に生まれた思想が、青年期的思想であるよりは壮年期的であり、さらに壮年期的であるよりは老年期的である。つまり古代において、中国思想はすでに円熟して「老成した」というべき思想なのです。
 なかでも、老子の思想が最も老成したものと言えるでしょう。人間が生まれ、老いて、死ぬという生命の過程をどのように考えていくかが中国古代哲学の重要なテーマでしたが、老荘の哲学では生命の基盤に「気」というものを置き、そこから「生」と「老」と「病」と「死」をとらえていきました。もともと老荘の哲学では人間の呼吸する気息と宇宙全体を充たしている大気は根本において同じであるとし、それを「気」と名づけました。
 荘子は「気が集まればそれが生命である。気が拡散すればすなわち死である」と言いました。人間というものは天の気、地の気が集まってできた存在であり、その気がなくなれば死ぬというのです。
 もともと東洋思想の根本的な考えは「気」を中心に置いています。そして、人間を含む全宇宙の現象を、仏教や儒教が形而上の「理」で説き明かそうとしたのと対照的に、形而下の「気」で説明しようとしました。
 人類の長い歴史のなかで、さまざまな文明がいろいろな地域に出現したり滅亡したりして今日に至っているわけですが、老子は今から二千数百年前にすでに人類文明の今日的状況、あるいはこれからの状況を見透かしていたように思います。科学文明が未発達だった時代の老子が、近代以後の科学文明、そして工業社会に対する最も痛烈なアンチテーゼを打ち出しているのは、驚くべきことです。
 科学文明の進歩が必ず人類の幸福につながるとする19世紀的な楽観論から抜け出して、科学の進歩とか近代工業社会に対する基本的な疑問を現代人は抱いています。そういう二千年以上もの人間の作為のもたらす結果への疑問が、古代中国にすでに現われていたのです。また、「遊び」とか「ゆとり」とか「シンプル」とか「スロー」といったキーワードは、いずれも老子の世界に通じていると思います。
 もともと、老子の「老」とは人生経験を豊かに積んだ人という意味です。また老酒というように、長い年月をかけて練りに練ったという意味が「老」には含まれています。老荘の哲学は「老い」というものを、醜く年を取ること、老衰していくことというようにネガティブにとらえるのではなく、充実であり円熟であるとポジティブに考えるのです。 
 孔子の儒教においても、「老い」は決してネガティブなものではありませんでした。『論語』為政篇には次のあまりにも有名な言葉が出てきます。
 「子曰く、われ十有五にして学に志し、三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順う。七十にして心の欲する所に従って矩を踰えず」
 15歳で学問に志し、30になって独立した立場を持ち、40になってあれこれと迷わず、50になって天命をわきまえ、60になって人の言葉が素直に聞かれ、70になると思うままにふるまってそれで道を外れないようになった......。この孔子の言葉は、老いることを衰退とせず、一種の人間的完成として見ていることを示しています。
 実際、孔子は非常に老人を大切にしました。孔子の日常生活を具体的に記述した『論語』郷党篇によれば、町内の人々と一緒に酒を飲むときは、つえをついた老人が退席するのを待って、はじめて退出したといいます。孔子は町内の集まりでは厳格に「礼」を持ち出したりしませんでしたが、年長者を敬う態度はつねに変わりはしなかったのです。
 儒教は農耕社会を基本としています。農耕社会において人間は年を取れば取るほど経験が豊かになりますから、当然、老人を尊重することになってきます。たとえば集会があると、年を取った者が上座を与えられます。一定の年齢になると、朝廷から鳩杖などを贈られ表彰を受けます。「敬老」「尊老」という考え方が徹底していたわけですが、これは日本にも古くから持ち込まれて、戦前まではっきりとした形で残っていたのです。