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一条真也
「老いるほど豊かに 長寿祝いのすすめ」

 

 先月12日、皇后さまの80歳の傘寿を祝う昼食会が開かれました。傘寿を迎えられるにあたって、皇后さまは「80年前、私に生を与えてくれた両親は既に世を去り、私は母の生きた齢(とし)を越えました。嫁ぐ朝の母の無言の抱擁の思い出と共に、同じ朝『陛下と殿下の御心に添って生きるように』と諭してくれた父の言葉は、私にとり常に励ましであり指針でした。これからもそうあり続けることと思います」とのお言葉を残されています。

 わたしは、「人は老いるほど豊かになる」と考えています。

 以前、ある新聞で読者からの感動的な投書を読みました。その内容は白髪にまつわるものでした。その人は50歳すぎの女性で、11歳のときから難病に取りつかれ、しかも誤診が重なったりして、何度も何度も「あと数日の命」とか「もうダメだ」などと言われながら、奇跡的に生きてきました。この女性が白髪を発見して「うれしかった」と言ったそうです。「自分もやっと老人になるところまで生き延びたのだ」と感じてうれしかったのだそうです。おそらく、この女性にとって1本の白髪は、厳しい競争を勝ち抜いて得た、特別賞のように感じたことでしょう。

 たしかに生きることは競争の連続です。考えてみれば、射精の瞬間から精子は数億倍というすさまじい競争を勝ち抜いて卵子にたどりつき、見事に受精する。でも、受精したらそれで安心ということはなくて、流産も死産もありうる。母親の胎内で十月十日の時間を経て無事に生まれたとしても、人生はつねに死の危険性に満ちています。そういう意味では、「老い」というエリアまで入ってきた競争者たちは選ばれし者であり、人生の勝利者と言ってもよいと思います。

 日本には、長寿祝いというものがあります。61歳の「還暦」、70歳の「古稀」、77歳の「喜寿」、80歳の「傘寿」、88歳の「米寿」、90歳の「卒寿」、99歳の「白寿」、などです。

 そのいわれは、次の通り。還暦は、生まれ年と同じ干支の年を迎えることから暦に還(かえ)るという。古稀は、杜甫の詩である「人生七十古来稀也」に由来。喜寿は、喜の草書体が「七十七」であることから。傘寿は、傘の略字が「八十」に通じる。米寿は、八十八が「米」の字に通じる。卒寿は、卒の略字の「卆」が九十に通じる。そして白寿は、百から一をとると、字は「白」になり、数は九十九になるというわけです。

 わたしは、儀式の本質を「魂のコントロール術」であるととらえています。儀式が最大限の力を発揮するときは、人間の魂が不安定に揺れているときです。老いてゆく人間の魂も不安に揺れ動きます。なぜなら、人間にとって最大の不安である「死」に向かってゆく過程が「老い」だからです。

 沖縄の人々は「生年祝い」としてさらに長寿を盛大に祝い、最後はカチャーシーを踊ります。わが社は沖縄でも冠婚葬祭事業を営んでいますが、結婚披露宴をはじめとして、沖縄の祝宴にはカチャーシーがつきものです。老若男女がみんな踊るさまは、本当にほほ笑ましいものです。しかも、おそらく過去の祖先たちも姿は見えないけれどそこにいて、一緒になって踊っているという気配がします。カチャーシーのリズムに身をまかせていると、なにか「生命は永遠である」という不思議な実感が湧いてきます。

 わたしは長寿祝いにしろ、生年祝いにしろ、今でも「老い」をネガティブにとらえる「老いの神話」に呪縛されている者が多い現代において、非常に重要な意義を持つと思っています。それらは、高齢者が厳しい生物的競争を勝ち抜いてきた人生の勝利者であり、神に近い人間であるのだということを人々にくっきりとした形で見せてくれるからです。それは大いなる「老い」の祝宴なのです。

 かつて、古代ギリシャの哲学者であるソクラテスは、「哲学とは、死の予行演習」と言いましたが、わたしは「死の予行演習」である哲学の実践として2つの方法があると思います。1つは、他人のお葬式に参列することです。もう1つは、自分の長寿祝いを行うことです。神に近づくことは死に近づくことであり、長寿祝いを重ねていくことによって、人は死を思い、死ぬ覚悟を固めていくことができます。もちろん、それは自殺などの問題とはまったく無縁で、あくまでもポジティブな「死」の覚悟です。「人生を修める」覚悟です。

 人は長寿祝いで自らの「老い」を祝われるとき、祝ってくれる人々への感謝の心とともに、いずれ一個の生物として自分は必ず死ぬのだという運命を受け入れる覚悟を持つ。また、翁(おきな)となった自分は、死後、ついに神となって愛する子孫たちを守っていくのだという覚悟を持つ。祝宴のなごやかな空気のなかで、高齢者にそういった覚悟を自然に与える力が、長寿祝いにはあるのです。

 そういった意味で、長寿祝いとは生前葬でもあります。わたしは、この長寿祝いという、「老い」から「死」へ向かう人間を励まし続ける心ゆたかな文化を、ぜひ世界中に発信したいと思っています。

 みなさん、ぜひ、長寿祝いをやりましょう!