第16回
一条真也
『1Q84』(BOOK1・2)村上春樹著(新潮社)

 

 発売日の時点で四刷、68万部という超話題のベストセラーです。1949年に刊行されたジョージ・オーウェルの近未来小説『1984』とは逆に、2009年の未来からの近過去小説、それが『1Q84』です。そこには実に奇妙な世界が描かれています。1Q84は本来の1984年とは異なった世界なのです。性描写のみならず殺人描写までがあまりにも具体的な本書を「ハートフルブックス」で紹介することについて少し悩みました。しかし、紛れもなく人間の「こころ」を深く見つめた作品だと思います。理由は主に二つ。
 第一に、本書が純愛小説だからです。一組の男女が、10歳のときに手を握ります。ともに特殊な家庭環境にあった二人は、その後20年間も会わないのに、相手のことを忘れずに深く愛する。いまどき、こんな純粋な恋愛が他にあるでしょうか。ラスト近くでは、愛ゆえの究極の自己犠牲の姿まで描かれています。著者の代表作『ノルウェイの森』は「100%の恋愛小説」と謳われましたが、本書はさらにその上をゆくピュアな純愛小説だと思います。
 第二に、本書が月を描いた小説だからです。わたしは、かつて『ロマンティック・デス』という著書で、『ノルウェイの森』の真の主人公は月ではないかと指摘したことがありますが、今回も月が物語の非常に重要な役割を果たしています。それも、1Q84年の世界では、空には二つの月が浮かんでいるのです。
 月とは人間の心そのものでもあり、「ハートフル」とは「心の満月」に他なりません。人間の深層心理において、月は、詩、夢、魔法、愛、瞑想、狂気、そして誕生と死...さまざまな神秘と結びつけられています。そして、愛する二人は同じ月を見ている。
 かつて、同じ月を見て同じ神を信仰していた人々が、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の三姉妹宗教に分かれ、傷つけ合い、血を流し合いました。
 そう、「宗教」なるものを真正面からとらえた、このシュールな月の小説は、あのエルサレムでの著者のスピーチにつながっているのです。たぶん。