2004
04
株式会社サンレー

代表取締役社長

佐久間 庸和

人類最大の謎とは?

 哲学産業としての冠婚葬祭業

 先月の「マンスリーメッセージ」にはかなりの反響がありました。特に最後に出てくる小文字病院のお医者さんのエピソードに感動したという声が多かった。紫雲閣で行われる葬儀の一つひとつの背景には、さまざまなドラマがあるのだということがおわかりいただけたと思います。
 逆に最初に申し上げたメッセージ、すなわち21世紀は心の時代であり、それは哲学・芸術・宗教の時代であり、そのすべてに冠婚葬祭が深く関わっているという冒頭部分を難しく感じた人もいるようです。でも具体的なエピソードももちろん大事ですが、やはり根幹となる考え方が最も重要であり、哲学・芸術・宗教という視点から冠婚葬祭をとらえることが必要だと私は確信します。なぜなら、それこそが冠婚葬祭という仕事に価値を与え、私たちのミッションを浮き彫りにするからです。
 今月から三回にわたって、哲学・芸術・宗教と冠婚葬祭の関わりについて掘り下げて話したいと思います。
 哲学・芸術・宗教と聞いて、おそらく最も近寄りがたいイメージを持たれるのは哲学でしょう。「哲学ほどおもしろいものはない」と私は思っているのですが、大多数の人は本気にしないでしょう。それほど、哲学は難解で無用の長物と見なす考え方が世の中では一般化しています。しかし他方で、それぞれの思いによって「哲学を求める」人々が後を絶たないのも、また事実です。
 特に経営者の多くは「哲学」とか「フィロソフィー」という言葉を語りはじめています。ドラッカーなどが、21世紀の社会は知識集約型社会であり、そこでは知識産業が主役になると主張しています。知識集約型社会において、企業が「売るもの」は、知識ワーカーとしての社員に体現された組織の知識や能力、製品やサービスに埋め込まれた知識、顧客の問題を解決するための体系的知識だとされています。顧客は、提供された知識とサービスの価値に対して評価し、支払うことになるのです。
 一方、企業が質の高い知を創造するのは、事業を高い次元から眺めること、知とは何かを問うこと、つまり哲学が求められます。それは「志の高さ」にもつながるもので、当然トップの課題でもあります。マーケットはそこまでみて企業を評価するようになるといわれています。ビジョンやミッションはもちろん、フィロソフィーまで求められるのが21世紀の企業像なのです。
 私の最も尊敬する経営者の一人である京セラ名誉会長の稲盛和夫氏は、日本人にいま求められていることは、「人間は何のために生きるのか」という、最も根本的な問いに真正面から向かい合い、哲学を確立することだと述べています。
 戦後60年近く経って、いまの日本に哲学がないという欠陥が明らかになってきました。戦後の日本を担ってきたリーダーたちが哲学を必要としなかったからです。戦後の日本で哲学を必要としたのは、現実に世界を変えようとした社会主義者だけでした。彼らはマルクス哲学を全面的に真理と考えましたが、ソ連や東欧の社会主義国家の崩壊によって、それが誤りであることがはっきりしました。資本主義の欠陥についてのマルクスの指摘は正しい点もあると思うのですが、暴力革命肯定論を全面的に正しいと考えて信奉するのは、とんでもない話です。そこには憎悪の神聖化があるわけですが、憎悪は必ず拡大再生産されます。その哲学の中には、非常に大きな間違いがあったと思わざるをえません。
 マルクス哲学が、戦後の日本人が唯一信奉した哲学なのに、それが間違っていることがわかって、いよいよ哲学は無用であることになりました。そうして政治家も経営者も、哲学のないまま今日に至ったわけです。政治には首尾一貫した思想、哲学が必要です。大衆に迎合して格好良さだけを求め、思想、哲学のない政治は必ず行き詰まり、そして国民に大きな禍を与えます。
 経営者にしても、大半の人は哲学を持っていません。当社のS2Mの一つ、「サポート・トゥー・モラル」に謳われている道徳や倫理というものはやはり哲学の一部ですが、しっかりした道徳や倫理を持っている経営者が少ない。ところが『稲盛和夫の哲学』という著書持つ稲盛氏は、経営における道徳・倫理というものを本気で考え、かつ実行している稀有な経営者であるといえます。
 「人間は価値ある存在なのか」「この世に生を受け、生きていく意味とはどこにあるのか」
 そのように「人間」というものに対して核心をつくような問いを受けたとき、稲盛氏は次のように答えるそうです。
 「地球上......いや全宇宙に存在するものすべてが、存在する必要性があって存在している。どんな微小なものであっても、不必要なものはない。人間はもちろんのこと、森羅万象、あらゆるものに存在する理由がある。たとえ道端に生えている雑草一本にしても、あるいは転がっている石ころ一つにしても、そこに存在する必然性があったから存在している。どんなに小さな存在であっても、その存在がなかりせば、この地球や宇宙も成り立たない。存在ということ自体に、そのくらい大きな意味がある」
 宇宙のなかで「存在する」ということは、あるものが自立的に存在するのではなく、すべてが相対的な関係のなかで存在するということになります。さらに考えを進めていけば、他が存在しているから自分が存在するし、自分が存在するから他が存在するという、相対的なつながりにおいて存在というものが成り立っている、ということができます。  釈迦ことゴータマ・ブッダはこれを「縁があって存在する」というふうに表現しましたが、つまるところ哲学的思考とは、宇宙の中における人間の位置や、自然の秩序や人生の意味などについて深く考えをめぐらせることだといえます。
 その意味で、人間が最初に考え出した最古の哲学とは「神話」です。どんな領域のことであれ、人間ははじめにしか本当に偉大なものは創造しないとされています。私たちが今日「哲学」という名前で知っているものは、神話がはじめて切り開き、その後に展開されることになる一切のことを先取りしておいた領土で、自然児の大胆さを失った慎重な足取りで進められていった後追いの試みにすぎないのかも知れません。神話はこれほどに大胆なやり方で、宇宙と自然の中における人間の位置や人生の意味について、考え抜こうとしました。人間の哲学的思考のもっとも偉大なものとは、まさに神話の中に隠されているのです。
 ところが今日の学校教育は、神話についてほとんど語ろうとしていません。神話は幼稚で、非合理的で、非科学的で、遅れた世界観を示しているものとされていますから、それについて学んだところで、今日のように科学技術が発達した時代においては、まるで価値がないと考えられています。それに日本では戦後、教育のやり方が大きく変わり、『古事記』や『日本書紀』に語られている神話を教えたがらなくなりました。これは本当に惜しいことです。
 『記紀』は、8世紀に政治的意図をもって編纂されたものではありますが、その中には、極めて古い来歴をもつ普遍的な神話がたくさん保存されているのです。これは世界の諸文明の中でも、あまり例のないことです。北米インディアンやアマゾン河流域の原住民が語り続けてきた神話とそっくりの内容をもった神話が、『記紀』には語られているのです。人類最古の哲学的思考の破片が、そこでキラキラと光っているのが見えるのです。そんなに魅力的なものを子供たちに教えないというのは、なんともったいないことでしょうか。
 学校教育が与えようとしている知識のほとんどは、せいぜいこの100年から150年間の「モダン」の時代に集積された知識にすぎません。「哲学」といっても、ギリシアで創りだされて以来2500年ほどの歴史しかもっていません。ところが「はじまりの哲学」である神話は、3万数千年にもわたる、とてつもなく長い歴史を持っており、その間に人間が蓄積してきた知性と知恵が、神話には保存されています。神話もたえず変化や変形をとげてきましたが、その核の部分には、最初に燃え上がった哲学的思考のマグマの火が今も燃え続けているのです。
 そして、神話は儀礼と深く結びついています。そう、冠婚葬祭業とは神話産業でもあるのです。結婚式についてみても、神前式にはイザナギノミコトとイザナミノミコトの神話が、協会にはアダムとイブの神話が背景にあります。
 また、葬儀とは天地創造神話を演劇化したものと言われます。死は、神による宇宙の秩序をかき乱し、社会に不幸をこうむらせます。この混乱した状態を終わらせるためには、大きな祭式を催して秩序を回復し、かつ創造をシンボリックに繰り返さなくてはなりません。すなわち、死によって破壊された「宇宙の秩序」を新たにするという葬儀の役目は、創造神話を演出することによって達成されるのです。
 「月面聖塔」や「月への送魂」の意味をよくわかるでしょう。月こそは、地球人類にとって最高・最大の神話的舞台であり、あらゆる民族にとって月は死後の世界そのものだからです。
 さて、「神話」の子である「哲学」は古代ギリシアで生まれました。ソクラテスは「哲学とは死の学び」と語り、その弟子であるプラトンは「死」についての哲学的思考を大著『国家』のなかの「エルの物語」にまとめています。なぜ、「哲学」と「死」の問題が分かちがたく結びついているのでしょうか。
 現代日本を代表する哲学者の中村雄二郎氏によれば、哲学をする上にまずもって大事なことは、経験上でも書物のうえでも、積極的に色々なことと出会って、未知なものやそれまで気づかなかったことを新鮮に受け取り驚くという、好奇心を持ちつづけることであるといいます。したがって「哲学は好奇心である」と言えます。
 哲学は好奇心であり、知ることへの情熱でもあるならば、そのまなざしは当然「謎」や「不思議」に向かいます。アニメ映画「千と千尋の神隠し」の主題歌にも出てくるように、生きている不思議、死んでいく不思議...この世は不思議に満ちています。まったく赤の他人の男女が知り合って、恋をして、結婚するというのも、考えてみれば実に不思議な話です。
 でも、人類にとって最大の謎はやはり「死」であるといえます。なぜなら、宇宙と自然の中における人間の位置、人生の意味を考える哲学的思考にとって「死」だけはどうしてもうまくはまらないパズルの最後の一片、トランプのジョーカーのような存在だからです。
 「メメント・モリ(死を想え)」という言葉がありますが、葬儀の時間こそは死を想う時間であるといえるでしょう。紫雲閣は紫雲閣を想う場所なのです。ここにきて、ようやく「哲学とは死の学び」という言葉の意味がわかってきます。哲学とは、牢獄としての肉体を超えて精神を純化させること。哲学の未知とは意識的に死ぬ道であり、そこで人々は「死想家」となる。紫雲閣は葬儀参列のお客様に対して、哲学的な空間と時間を提供しているのです。
 特に最近、当社が開発し、北九州紫雲閣および小倉紫雲閣に導入した「ハートピアシステム」によって、哲学企業としての当社のあり方が明確になりました。その場を一瞬にして天国に変えるという驚異の映像システム「ハートピアシステム」は、故人の遺影を中心に、大宇宙や月、山、海、川、滝、そして花畑などをワイドスクリーンに立体的に映し出します。それを見た参列者は、故人のありし日を偲ぶとともに、「生命とは何だろう」「人生の意味とは何だろう」「人は死んだら、どこに行くのだろう」といった哲学的な問いをごく自然に頭の中に思い浮かべることができるのです。「ハートピアシステム」こそは、冠婚葬祭業を真の「哲学産業」とする魔法の機械なのです。もちろん、冠婚葬祭の基本にある「礼」も、孔子の説いた哲学的コンセプトです。
 おぼえておいてください。サンレーは「哲学」を売る会社なのです。