2005
03
株式会社サンレー

代表取締役社長

佐久間 庸和

「神と仏はロミオとジュリエット

  偉大なる日本のハイブリッド文化」

 おかげさまで、大分事業部念願の宇佐紫雲閣が三月三日に無事オープンしました。宇佐といえば、言うまでもなく宇佐神宮をいただく名高い宗教都市です。この宇佐神宮の神が、かつて神道そのもの、つまり日本の八百万の神々を救ったことがあるのをご存知ですか。
 日本列島にいた古代人たちは自然を崇拝し、地面に顔を出した岩の露頭ひとつにも海底の磐根の大きさを思い、奇異を感じました。畏れを覚えればすぐ、そのまわりを清め、みだりに足を踏み入れて汚さないようにしました。自然に対するシンプルな畏れの儀礼化。それが、神道でした。むろん、社殿は必要としません。社殿は、はるかな後世、仏教が伝わってくると、それを見習ってできた風です。
 さし昇ってくる朝日に手を合わす。森の主の住む大きな楠にも手を合わす。台風にも火山の噴火にも大地震にも、自然が与える偉大な力を感じとって手を合わす心。自然の営みのリズムそのものの発動、地球の律動の現われに対する深い畏怖の念を、あらゆるネイティブな文化と同様に神道も持っていました。インディアンはそれをグレート・スピリット、自然の大霊といい、神道ではそれを八百万の神といいました。 このように長いあいだ自然をもって神々としてきた日本人でしたが、仏教が渡来したとき、従来の神々が淡白過ぎ、迫力に欠けることを思わざるをえませんでした。五五二年の仏教渡来のことは、『日本書紀』に書かれています。百済から金銅の釈迦像一体と経論・仏具などがもたらされました。贈った側の使者が、「この法は、周公・孔子も知り給わなかった」と重々しく述べ、「福徳果報を生す」とも言いました。本来「空」であるべき仏教について、いきなり現世利益を説くのは笑止かと思えますが、いまさら六世紀の外国使者に文句を言ってもはじまりません。
 それ以上に当時の日本人を驚かせたのは、彫刻でした。六世紀といえば、古墳におさめるための埴輪がしきりに生産されている時代です。その程度の技術しか持たなかったこの時代に、生けるが如き人体彫刻が、釈迦像の形をとってもたらされたのです。しかも、鋳銅に金メッキがほどこされていました。金メッキを見たのもこのときが初めてであり、当時の欽明天皇は非常に驚いたそうです。
 ブッダの頃のインド仏教には、仏像はありませんでした。金銅仏を含めた仏像がガンダーラで初めてつくられたのは、二世紀頃とされています。つまり四百年もかかって、日本に来たわけです。
 大和の朝廷では神道派が反対しましたが、その後曲折を経て、この世紀の終わりには大和の斑鳩の地に法隆寺が造営されるまでに盛んになりました。神は没落し、「日本の神々は迷っている」というのが鎮護国家の仏教を受容した奈良時代の僧たちの見方であったようです。僧たちは、神々にありがたい経を聞かせて救おうとしました。仏は上で、神は下だったのです。そういう高々とした態度であちこちの有力な神社に祭神を済度するための神宮寺がつくられ、そのことで神々は没落をまぬがれたのです。
 ここに、八幡神という異様な神が現われます。後世、津々浦々に八幡社が建てられますが、奈良時代までは豊前国の宇佐にしかこの神はなかったのです。現在では二万五千社を数える八幡信仰の発祥地こそ、この宇佐でした。
 宇佐には、渡来人の小集団が住んでいました。秦氏の一派だったようです。秦氏は『日本書紀』などによると、遠く秦の始皇帝の後裔と称していました。秦の滅亡後、流浪して朝鮮半島の漢帝国領である楽浪・帯方郡にいたようで、五世紀のはじめ頃に渡来しました。ありようは農民の集団ながら、異文化の匂いがありました。仏教渡来の世紀である六世紀の半ば過ぎ、宇佐の彼らの集団の中で、「八幡神」という異国めいた神が涌出した。この神は風変わりなことにシャーマンである巫女の口を借りてしきりに託宣を述べる。それももっぱら国政に関することばかりで、「よほど中央政界が好きな神のようであった」と、司馬遼太郎は『この国のかたち』に書いています。それまで大和にもシャーマンはいましたが、八幡神のように政治好きではありませんでした。
 この神は五七一年に湧出したとき、「われは誉田天皇(応神天皇)である」と名乗りました。最初から人格神だったことで、当時の他の古神道の神々と異なっており、このあたりにも異文化を感じさせます。さらには、この名乗りによって、大和の宮廷は無視できなくなりました。
 仏教が盛んになると、「昔、われはインドの霊神なり。今は日本の大神なり」と託宣しました。なんと、もともとは仏教の発祥地であるインドの神であったと宣言し、新時代に調和したのです。聖武天皇は仏教をもって立国の思想としようとしただけに八幡神の仏教好きをよろこび、七三八年、宇佐の境内に勅願によって弥勒寺を建立させました。これが神宮寺のはじまりになります。シャーマニズムの八幡神がアニミズムの八百万の神々を新時代へ先導しはじめたのであり、世界宗教史上きわめて珍しい出来事です。
 さらに聖武天皇が大仏を鋳造し、東大寺を建立したとき、八幡神はしばしばこの大事業のために託宣しました。聖武天皇は大いによろこび、大仏殿の東南の鏡池のほとりに東大寺の鎮守の神として手向山八幡宮を造営しました。神社が寺院を守護したのです。いわば、同格に近くなりました。これが、平安時代に入って展開される神仏習合という、完全なる同格化のはじまりになったと言えます。
 神仏習合の思想は、神々の故郷はインドで、たまたま日本にやってきた、ということが基礎になっています。この平安時代の思想の先駆をなしているのが、「自分は、昔はインドの神だった」という八幡神の託宣でした。いわば、すべて八幡神が、落ち目だった神々をよみがえらせたのです。全国に八万はあるといわれる神社のすべては、宇佐神宮に感謝しなければなりません。その後、神仏習合思想は、本地垂迹説や反本地垂迹説という新しい習合思想を生み出しました。本地垂迹説とは、仏が本体で、民衆を教化し救済する仮の姿となって現われてきたのが神であるという思想です。仏が本で神が従であるとの説ゆえに、仏本神従説とも呼びます。この本地垂迹説に対抗するようにして登場したのが、反本地垂迹説です。それは日本の神が本で、インドに現われた仏は仮の姿であるというものです。
 この反本地垂迹説を強く主張したのは応仁の乱の頃に登場した吉田兼倶です。唯一宗源神道(吉田神道)の提唱者で、京都の神楽岡にある吉田神社を拠点として、そこに大元宮という正八角形の神殿を建立しました。おそらく吉田兼倶はこの「八」の数字に、八百万の「八」という象徴的な意味合いを込めたのでしょう。「八」はすべてのものを包んで収める数であり、万物の栄、弥栄を表わす数字です。そのような八角のシンボリズムを通して、兼倶は宇宙の全体を大元宮という八角形の社殿におさめたのです。それは、神道曼荼羅づくりと言えるでしょう。
 兼倶は『唯一神道法名集』という本の著者ですが、その中で根本枝葉花実説という説を展開しています。根本すなわち根っこが日本の神道で、枝葉すなわち枝や葉っぱが中国の儒教で、花実すなわち木の実がインドの仏教であるとの説です。仏教とは、神道の根から生え、生い茂った儒教の葉から実った花実として熟したものであるとします。それがやがて大地に落ち、もう一根本の根っこに戻る。これが仏教が東進した歴史的過程だと述べられました。つまり、神道、儒教、仏教という三つの宗教がここでは植物の根と枝葉と花実にたとえられ、そのつながりと循環のプロセスが描かれ、それによって根である神道の根本的優位性が主張されたのです。
 注目すべきは、この根本枝葉花実説の真の考案者が聖徳太子とされていることです。最近では『聖徳太子はいなかった』などという本も出ていますが、日本の習合思想の祖とされる聖徳太子は、とにかく謎に満ちあふれた人です。生まれたばかりの頃からよく物を知り、言葉を話し、十人が同時に話すのを聞いてよく理解し、「未然のことを知る」能力を持つと『日本書紀』に記されています。「未然のことを知る」とは、未来に起こる出来事を予知するというシャーマン的な超能力のことです。これは、きわめて重要なことです。なぜなら、シャーマニズム的かつまた神道的な文化を土壌にして、その上に仏教や儒教を取り入れるという神儒仏習合の原型を聖徳太子が用意したからです。
 聖徳太子こそは宗教と政治における大いなる編集者でした。儒教によって社会制度の調停をはかり、仏教によって人心の内的平安を実現する。すなわち心の部分を仏教で、社会の部分を儒教で、そして自然と人間の循環調停を神道が担う。三つの宗教がそれぞれ平和分担するという「和」の宗教国家構想を聖徳太子は説いたのです。神と仏を共生させるという離れ業をやったわけです。
 もともと、神と仏は原理的に異なる存在です。その違いを鎌田東ニ氏は三つの標語にしてわかりやすく説明しています。
 第一に、神は在るモノ、仏は成る者  第二に、神は来るモノ、仏は往く者  第三に、神は立つモノ、仏は座る者  つまり、神とは森羅万象、そこに偏在する力、エネルギー、現われですが、それに対して、仏は悟りを開き、智慧を身につけて成る者、すなわち成仏する者です。また神は祭りの庭に到来し、訪れてくるモノですが、それに対して、仏は悟りを開いて彼岸に渡り、極楽浄土や涅槃に往く者です。また神は祭りの場に立ち現われるがゆえに、神の数詞は一柱・二柱と数えるのに対して、仏は悟りを開くために座禅瞑想して静かに座る者で、その座法を蓮華座などと呼びます。例えば、諏訪の御柱祭や伊勢神宮の心の御柱や出雲大社の忌柱に対して、奈良や鎌倉の大仏の座像などは、立ち現われる神々の凄まじい動のエネルギーと、涅槃寂静に静かに座す仏の不動の精神との対照性を見事に示しています。
 このように、神と仏の違いは非常に大きい。ある意味で対極に位置する者でありながら、日本で神仏習合が進んだのは、もともと森羅万象に魂の宿りと働きを見る自然観や精霊観があり、それが仏を新しい神々や精霊の一種として受け入れる素地となったからです。その自然観や精霊観を「アニミズム」と呼ぼうが、「森羅万象教」や「万物生命教」と呼ぼうが、もっとシンプルに「自然崇拝」と呼ぼうが、実態はそう変わりません。そこには、「一寸の虫にも五分の魂」が宿り、「仏作って魂入れず」という言葉で肝心要のことに注意を喚起してきた文化があります。その文化の根幹にある思想を、鎌田氏は「八百万神道」の中核をなす歴史的生命線として「神神習合」と位置づけています。神神習合論は、肯定性の思想の極致と言えるでしょう。極論すれば、八百万主義とは全肯定の思想なのです。
 日本の特性について、今までさまざまに表現されてきました。いわく、文明の終着駅、文化の溶鉱炉、文明の十字路、文化の組立工場、などなど。極東という言い方に端的に示されているように、日本列島は確かにユーラシア大陸の果てに浮かぶ小さな島々の集まりであり、その先は太平洋やオホーツク海が果てしなく広がっているばかりでした。日本に対するいくらかロマンティックな幻想はそうした日本の置かれている地理的特性と条件に由来するところが少なくありません。そこはまさしく、さまざまな文明と文化の終着駅・十字路・溶鉱炉・組立工場でした。このような日本文化の特性が培われてきた根幹に「神神習合」そして「神仏習合」があったのです。
 神と仏は原理的に異なるものであったとしても、日本人の心の中ではずっと平和に共生してきました。神仏は分離されるものではなく、表裏一体をなし密接不離の関係にある。ときには本地垂迹し、互いに変換しあい、変容しあう間柄でした。神仏はいわば相思相愛のロミオとジュリエットだったのです。
 その意味でも、明治元年(一八六八年)に神仏分離令が出されたことは不幸な事件でした。それまで蜜月関係を続けていた日本の神仏は、ここで制度的にはっきりと分離されることになりました。そしてその後、一部地方で激しい廃仏毀釈運動が起こり、寺に火をつけたり仏像を壊したりするといった運動が起こったのです。神仏分離令は、愛し合うロミオとジュリエットを両家の都合で別れさせる悲劇に他なりませんでした。
 
 日本文化のすばらしさは、さまざまな異なる存在を結び、習合してゆく寛容性にあります。それは、ハイブリッド文化であり、クレオール文化であり、チャンプルー文化です。 その最大の象徴こそが、私たちが生業とする冠婚葬祭であることは言うまでもありません。
宇佐の地で大和の心救われり
        神と仏を結ぶ八幡 (庸軒)