第10回
一条真也
「お盆には、先祖に感謝しよう!」

 

 夏といえば、お盆ですね。
 日本人にとって最も大規模な先祖供養の季節は、「お盆」の時期でしょう。
 「盆と正月」という言葉が今でも残っているくらい、「お盆」は過去の日本人にとっての楽しい季節の一つでした。一年に一度だけ、亡くなった先祖たちの霊が子孫の家に戻ってくると考えたからです。
 日本人は、古来、先祖の霊によって守られることによって初めて幸福な生活を送ることができると考えていました。その先祖に対する感謝の気持ちが供養という形で表わされたものが「お盆」なのです。一年に一度帰ってくるという先祖を迎えるために迎え火を燃やし、各家庭にある仏壇でおもてなしをしてから、再び送り火によってあの世に帰っていただこうという風習は、現在でも盛んです。
 同じことは春秋の彼岸についても言えますが、この場合、先祖の霊が戻ってくるというよりも、先祖の霊が眠っていると信じられている墓地に出かけて行き、供花・供物・読経・焼香などによって供養するのです。
 それでは、なぜこのような形で先祖を供養するかというと、もともと二つの相反する感情からはじまったと思われます。一つは死者の霊魂に対する恐怖であり、もう一つは死者に対する追慕です。
 やがて二つの感情が一つにまとまってきます。死者の霊魂は、死後一定の期間を経過すると、この世におけるケガレが浄化され、「カミ」や「ホトケ」となって子孫を守ってくれるという祖霊になるのです。
 かくて、日本人の歴史の中で、神道の「先祖祭り」は仏教の「お盆」へと継承されました。そこで、生きている自分たちを守ってくれる先祖を供養することは、感謝や報恩の表現と理解されてくるわけです。
 しかし、個々の死者に対する葬式や法事の場合は、死霊に対する感謝や報恩といった意味よりも、追善・回向・冥福といった意味のほうがはるかに強いと思います。すなわち、死者のあの世での幸福を願う追善と、子孫である自分たちを守ってくれていることに対する感謝とにまとめられるのです。
 どんな人間にも必ず先祖はいます。しかも、その数は無数といってもよいでしょう。これら無数の先祖たちの血が、たとえそれがどんなに薄くなっていようとも、必ず子孫の一人である自分の血液の中に流れているのです。
 「おかげさま」という言葉で示される日本人の感謝の感情の中には、自分という人間を自分であらしめてくれた直接的かつ間接的な原因のすべてが含まれています。そして、その中でも特に強く意識しているのが、自分という人間がこの世に生まれる原因となった「ご先祖さま」なのです。
 日本人はいったい、そういう先祖の霊魂がどこから来て、どこへ帰ると考えているのでしょうか。仏教の庶民的な理解では、地獄、極楽あるいは浄土ということになるでしょう。
 お盆の三が日は「地獄の釜も開く」と言われています。しかし、地獄や極楽とは庶民教化の方便として説かれたものです。それらは、人間の現世における行いによって未来永劫の住処となるはずのものなのです。そこから、どうして帰ってきたりすることができるのでしょうか。ましてその死霊が地獄から来ているのだとすれば、これを再び地獄へ送り帰すなど、肉親の情を持つ者にできることではありません。
 ですから、盆行事を営んでいる日本人の多くは、おそらく自分たちの先祖が極楽に行っていると信じているのでしょう。
 しかしながら、ここでも問題が出てきます。仏教では、この極楽浄土は西方十万億土の彼方にあると、庶民に説いています。そこは煩悩罪悪に汚されたこの世、穢土(えど)を厭離(おんり)して往生すべき理想郷のはずなのです。
 せっかく往いて再生した浄土から、日本人はどうして厭離すべきこの穢土へ先祖の霊たちを迎え、また送り出さなければならないのでしょうか。これはどう考えても、日本人がやっていることと仏教の教えとの間に矛盾があると言わなければなりません。
 たとえ宗教的に説明がしにくくても、日本人の「こころ」がお盆を必要としていることに変わりはありません。お盆の時期は、ぜひご先祖さまをお迎えして、こころ豊か時間を過ごしていただきたいと思います。