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一条真也
「問われるべきは『死』ではなく『葬』である!」

 

 先日、東京の神田にあるNPO法人「東京自由大学」で講義を行った。
 小さな市民大学だが、宗教哲学者で「縁の行者」の異名を持つ鎌田東二理事長の人脈もあり、これまで信じられないような豪華メンバーが講義をしてきた。多種多様なフロントランナーたちが集う「神田の学び舎」でわたしが教壇に立つのは4年ぶり。
 「戦後70年記念出版」として今年7月に上梓した拙著『唯葬論~なぜ人間は死者を想うのか』(三五館)についての特別講義であった。
 同書はわたしのこれまでの活動の集大成で、アマゾンの哲学書ランキングでも1位となった。この本では、宇宙論/人間論/文明論/文化論/神話論/哲学論/芸術論/宗教論/他界論/臨死論/怪談論/幽霊論/死者論/先祖論/供養論/交霊論/悲嘆論/葬儀論という18の論考から「死」と「葬」の本質を求めた。
 わたしは、葬儀とは人類の存在基盤であり、発展基盤だと思っている。約7万年前に死者を埋葬したとされるネアンデルタール人たちは「他界」の観念を知っていたとされる。
 「人類の歴史は墓場から始まった」という言葉があるが、確かに埋葬という行為には人類の本質が隠されている。それは、古代のピラミッドや古墳を見てもよく理解できるだろう。文明および文化の発展の根底には、「死者への想い」があるのだ。
 オウム真理教の「麻原彰晃」こと松本智津夫が説法において好んで繰り返した言葉は、「人は死ぬ、必ず死ぬ、絶対死ぬ、死は避けられない」という文句だった。死の事実を露骨に突き付けることによってオウムは多くの信者を獲得したが、結局は「人の死をどのように弔うか」という宗教の核心を衝くことはできなかった。
 人が死ぬのは当たり前である。「必ず死ぬ」とか「絶対死ぬ」とか「死は避けられない」など、言挙げする必要なし。最も重要なのは、人が死ぬことではなく、死者をどのように弔うかということ。問われるべきは「死」でなく「葬」なのである。