38
一条真也
「島田裕巳氏と葬儀について語り合う」

 

 先日、宗教学者の島田裕巳氏と対談しました。島田氏との共著『お葬式を問う』(仮題、三五館)の巻末企画です。これまで往復書簡の形で「葬儀」をテーマに何通か手紙のやりとりをしてから、最後に両者で対談したのです。

 かつて、わたしは島田氏の『葬式は、要らない』(幻冬舎新書)というベストセラーに対し、反論の書として『葬式は必要!』(双葉新書)を書きました。それから5年後、再び島田氏の著書『0葬』(集英社)に対抗して『永遠葬』(現代書林)を執筆しました。

 島田氏は、葬式無用論の代表的論者として有名ですが、わたしは葬式必要論者の代表のようにみられることが多いようです。そんな二人が共著を出すということに驚く人も多いようです。たしかにわたしたちは、これまで「宿敵」のように言われてきました。「葬儀」に対する考え方は違いますが、わたしは島田氏を才能豊かな文筆家としてリスペクトしています。意見が違うからといって、いがみ合う必要などまったくありません。意見の違う相手を人間として尊重した上で、どうすれば現代の日本における「葬儀」をもっと良くできるかを考え、そのアップデートの方法について議論することが大切だと思っています。

 対談は東京の六本木ヒルズ49階にある「アカデミーヒルズ」で行われました。当日、宿泊していた赤坂見附のホテルからタクシーで六本木に向かったのですが、1週間前、ぎっくり腰になってしまったわたしは、腰にコルセットを強く巻きました。まるで、往年の東映ヤクザ映画で高倉健さん演じる主人公が殴り込みをする前に腹にサラシを巻くような感じでしたね。そのサラシの中にはドスを隠しているわけですが......。

 アカデミーヒルズに到着すると、島田氏が待っておられました。島田氏と直接お会いするのは、4回目になります。もう25年ぐらい前、宗教哲学者の鎌田東二氏の紹介で、出版社のパーティーで初対面しました。その後、『葬式は、要らない』と『葬式は必要!』が刊行された2010年の5月26日にNHKの討論番組で共演し、葬儀について語り合いました。次は13年2月8日でした。再会のキーマンは、またしても鎌田氏です。同氏は「神道ソングライター」として活動をされているのですが、そのライブが東京の小田急線の梅ケ丘駅前にあるライブハウスで開かれたとき、わたしの席の隣が島田氏の席だったのです。鎌田氏は、ライブの開始時間になっても姿を現しませんでした。会場のライブハウスには非常に重苦しい雰囲気が漂いましたが、そのおかげで、わたしは島田氏とたっぷり話ができました。そして、今回の共著で対談するという運びになったわけです。本当に「縁は異なもの」であります。

 議論のポイントは、「直葬をどう考えるか?」「仏式葬儀の是非(問題点)」「墓の問題について」「自然葬のあり方」「家族を求めない社会、あるいは隣人の時代」「無縁社会をどうとらえるか?」「故人の『たましい』、遺族の『こころ』」「生きている人が死んでいる人に縛られている?」「生きている人間は死者に支えられている?」「大きな変化のさなかにある葬儀に必要な新しい意味とは?」などでした。

 また、「社葬をどう考えるか?」「葬儀とお金」「自分(島田裕巳氏、一条真也)の葬儀をどうするか? どういう弔い方をされたいか?」といったテーマについて、島田氏とわたしは数時間にわたって縦横無尽に語り合いました。

 島田氏とは意見の一致も多々あり、まことに有意義な時間を過ごすことができました。弁証法のごとく、「正」と「反」がぶつかって「合」が生まれたような気がします。それも非常に密度の濃いハイレベルな「合」です。

 最近、原発や安保の問題にしろ、意見の違う者同士が対話しても相手の話を聞かずに一方的に自説を押し付けるだけのケースが目立ちます。ひどい場合は、相手に話をさせないように言論封殺するケースもあります。そんな大人たちの姿を子どもたちが見たら、どう思うでしょうか。間違いなく、彼らの未来に悪影響しか与えないはずです。わたしたちは、お互いに相手の話をきちんと傾聴し、自分の考えもしっかりと述べ合いました。

 当事者のわたしが言うのも何ですが、理想的な議論が実現したのではないかと思います。けっしてなれ合いではなく、ときには火花を散らしながら、ある目的地に向かっていく。今後の日本人の葬送儀礼について、じつに意義深い対談となったように思います。島田氏から「もちろん、葬式は必要ですよ」「結婚式はもっと必要ですよ」との言葉も聞くことができて、大満足です。

 対談を終えて、わたしは「葬儀は人類の存在基盤である」という持論が間違っていないことを再確認しました。その詳しい内容はここには書きませんが、10月刊行予定の島田裕巳・一条真也著『お葬式を問う』(仮題)をぜひお読み下さい。