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一条真也
「誕生日に『論語』を読む」

 

 先日、54回目の誕生日を迎えた。
 例年のように、その日、私は『論語』を通読した。なぜ、誕生日に『論語』?
 私が40歳を迎えようとしていたときのこと。「自分ではまだ若いと思っていても、はたから見ればもう中年と呼ばれる年代になるのか」と落胆のようなものがあった。それと同時に40歳になるのにまだ何事もなしていないという焦り、さらには、さまざまな迷いも腐るほどあった。
 「40歳といえば不惑で、もう迷わない年齢のはずなのに・・・・・・」とも思った。「不惑」という言葉の出典は『論語』である。自分はこんなに悩み、迷っているのに、なぜ孔子は40歳にして「不惑」になるなどと言ったのかという素朴な疑問が湧きあがった。
 それなら原典を読んでやろうじゃないか、というわけで、『論語』を読む決意を固めた。冠婚葬祭を業とする会社の社長になったばかりでもあり、儀式の根本思想としての「礼」を学び直したいという考えもあった。
 そして、40歳の誕生日に40回目を読み終える計画で、40日前から1日1回、『論語』を読んだのである。
 高校時代以来、久しぶりに接する『論語』だったが、一読して目から鱗が落ちる思いがした。当時の自分が抱えていた多くの問題の答えがすべて書いてあるように思った。
 40回読めば内容は完全に頭に入るので、以後は誕生日が来るごとに再読する。不思議なことに、以前感銘を受けた箇所はそれほど気にならず、心惹かれるポイントが変わっていることに気づいたりする。そういう自分の心境の変化を観察するのもなかなか面白い。こういう形でなら、わが命が果てるまで読み返せる。
 私が70歳まで生きるなら70回、80歳まで生きるなら80回、『論語』を読む。こうすれば、もう何も怖くないし、惑うこともないと思った。
 何のことはない、私は「不惑」の出典である『論語』を座右の書とすることで、「不惑」を実際に手に入れたのである。これからも、死ぬまで誕生日には『論語』を読み続けたい。