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一条真也
「沖縄の生年祝いに学ぶ」

 

 沖縄に行ってきた。AKBの総選挙も中止になる梅雨の季節だったが、「守礼之邦」を訪れると、癒やされる。そして、人生を肯定したくなる。
 沖縄の人々は「生年祝い」として長寿を盛大に祝う。これは、老いるべき運命にある人が幸せに生きていく上でとても重要なことである。
 生年祝いというセレモニーは、高齢者が厳しい生物的競争を勝ち抜いてきた人生の勝利者であり、神に近い人間であるのだということを人々にくっきりとした形で見せてくれる。それは大いなる「老い」の祝宴だ。
 古代ギリシャの哲学者ソクラテスは、「哲学とは、死の学びである」と言ったが、わたしは「死の学び」である哲学の実践として2つの方法があると思う。1つは、他人のお葬式に参列することである。
 もう1つは、自分の長寿祝いを行うことである。神に近づくことは死に近づくことであり、長寿祝いを重ねていくことによって、人は死を想い、死ぬ覚悟を固めていくことができる。もちろんそれは自死の問題などとはまったく無縁で、あくまでポジティブな「死」の覚悟である。
 人は長寿祝いで自らの「老い」を祝われるとき、祝ってくれる人々への感謝の心とともに、いずれ1個の生物として自分は必ず死ぬという運命を受け入れる覚悟を持つ。
 また翁や媼となった自分は、死後に神となって愛する子孫たちを守っていくのだという覚悟を持つ。祝宴のなごやかな空気のなかで、高齢者にそういった覚悟を自然に与える力が、長寿祝いにはあるのだ。
 そういった意味で、生年祝いとは生前葬でもある。人間は必ず老い、必ず死ぬ。それは不幸なことなどではない。わたしは「老い」から「死」へ向かう人間を励ます生年祝いという心豊かな文化を、世界中に発信したいと思っている。
 実際に、わたしも生年祝いに何度も参加した。泡盛に酔い、カチャーシーを踊れば、本当に死ぬのが怖くなくなってくるから不思議だ。