2006
01
株式会社サンレー

代表取締役社長

佐久間 庸和

「正月そして成人式とは何か?

 年中行事と通過儀礼の意味を知る」

 新年おめでとうございます。
 昨年12月度の訓示で「クリスマスは死者の祭り」とお話したら、驚かれた方が多かったようですが、正月もまた死者の祭りという側面があるのをご存じですか?
 私たち日本人にとって、正月に初日の出を拝みに行ったり、有名な神社仏閣に初詣でに出かけるのは、いたって見慣れた、当たり前の光景です。これらの行事は日本の古くからの伝統だと思われがちですが、実のところ、初日の出も初詣でも、いずれも明治以降に形成された、新たな国民行事と呼べるものです。
 それ以前の正月元旦は、家族とともに、「年神」(歳徳神)を迎えるため、家のなかに慎み籠って、これを静かに待つ日でした。民俗学では、この年神とは、もとは先祖の霊の融合体ともいえる「祖霊」であったとされています。本来、正月は盆と同様に祖霊祭祀の機会であったことは、お隣の中国や韓国の正月行事を見ても容易に理解できるでしょう。つまり、正月とは死者のための祭りなのです。
 日本の場合、仏教の深い関与で、盆が死者を祀る日として凶礼化する一方、それとの対照で、正月が極端に「めでたさ」の追求される吉礼に変化したというのは、日本民俗学の父である柳田國男の説です。しかし祖霊を祀るという意味が忘れられると、年神は陰陽道の影響もあって、年の初めに一年の幸福をもたらす福神と見なされていきます。
 江戸時代の半ばまでは、その福神としての年神を、家の中に正月棚(年棚・歳徳棚)を設け、これを忌み籠って迎えていましたが、こうした忌みの感覚が弱くなっていった大都市では、自ら方角の良い方向(恵方・あきの方)にある社寺に出向いて、その福にあやかろうとする恵方参りへと変化します。この江戸期後半に流行した恵方参りは、必ずしも元旦に行なうものでなく、またその社寺の最初の縁日に、初参りを行なう場合もありました。
 近代に至って、太陰暦から太陽暦に改暦されると、同じ年の改まる機会であった立春、つまり節分の重要性が低下する一方、元旦がその重みを増して、年の初めとしての「めでたさ」がより強調され、初詣での習慣が成立していきました。
 初日の出も、18世紀後半に江戸庶民の物見遊山から起こった行事です。近代になると、日本が世界の極東に位置すること、日の丸や太陽暦を用いることなどから、旭日つまり昇る太陽が、めでたさの最たるものとしてとらえられました。また明治時代の日本が日清戦争・日露戦争に勝利した旭日昇天の勢いの国家であると自負されて、初日の出は国家の繁栄を祈願する厳粛な行事に高められていったのでした。必ずしも伝統的ではなかったものが、まるで古来から連綿と続いてきた「伝統」であるかのように位置づけられたわけで、初日の出を拝む習慣は「創られた伝統」の一例であると言えるでしょう。これには近代交通の発達やマスメディアの影響なども考慮されなければなりません。たとえばNHKの「紅白歌合戦」のすぐ後に「ゆく年くる年」というテレビ中継があります。この番組で、除夜の鐘を鳴らす寺院の静寂が、午前零時を過ぎ、一転して参拝客で賑わう初詣での光景が放映されるようになると、私たちはこれでしか年の変わり目を意識できなくなっていきます。
 若い人などは、「Kー1 Dynamite!」や「PRIDE 男祭り」などの格闘技ライブを観て、その後、ジャニーズやサザンオールスターズのカウントダウン・ライブを観ないと、年の変わり目を意識できない。
 「皆がやっていること」と同じ行為をすること、つまりは「想像の共同体」との関わりを持つことで、伝統らしさに浸ることが可能となったのです。紅白や格闘技やカウントダウン・ライブを観ないと、年の暮れを迎えた感じがしないというのと同様に、こうした現象は、村に代表される共同体からの規制から解き放たれてしまった近代日本人が生み出した、それなりの聖なる演出なのだと言えるでしょう。
 私どもの松柏園ホテルでは、クリスマスを過ぎると、門松はもちろんのこと、大凧や大羽子板など、お客様に正月を意識させる演出が、あの手この手で毎年なされます。北九州のお客様から「松柏園が最も正月気分が味わえる」という声をよく頂戴します。松柏園に限らず、ホテルや冠婚葬祭施設には季節感の演出が欠かせないのは言うまでもありません。
 一月は正月だけではありません。私ども冠婚葬祭業にとって大きな行事がもう一つ控えています。そう、成人式です。6年前から第二月曜となりましたが、それ以前は15日と決まっていました。最近は荒れる成人式がマスコミを賑わし、眉をひそめる人も多いですね。
 成人式とは一体何か。実は、現在のような自治体主催の成人式の歴史は古くありません。15日を「成人の日」と定めたのは、昭和23年(1948年)施行の「国民の祝日に関する法律」であり、成人式が全国的に広まったのはそれ以降のことでした。
 ただし、それには前史があります。一つは埼玉県蕨町(現・蕨市)の成年式です。終戦翌年の11月、復員や物資欠乏という世相の中、若者を元気づけようと、地元の青年団などが主催して、お汁粉や芋菓子を振る舞いました。蕨市はこれが成人式の最初だとして、アピールしています。
 しかし、もう一つ、実は成人式には戦前の徴兵検査の名残があるのです。明治以降、満20歳に達した男子がこれを受けることが成人のしるしとされてきました。
 それにしても、肉体的年齢からみれば20歳では遅すぎます。近代以前も大人への成長過程は社会の大きな関心事であり、男子は元服、女子は裳着という成人儀礼が行なわれていました。中世から近世の武家社会では、有力者を仮親に立て行なう烏帽子着の祝いが一般的でした。
 昭和の前半くらいまで日本各地に伝えられていた民俗では、男子15歳のふんどし祝いや女子13歳のゆもじ祝いなど、性的成熟に対応する儀礼が多かったようです。
 そして、一人前として認められるには一定の力仕事、労働能力も当然要求されました。大阪府泉南郡では水田で牛を使い、五斗俵を背負うことができると、煙草を吸うことが許されました。また、共同生活の能力も叩き込まれました。静岡県小室村(現・伊東市)では、男子はすべて17歳になると若衆組へと入りましたが、その寄り合いの席で、荒筵の上に三角の薪を並べて座らせられ、薪で打たれるのが決まりでした。
 つまり、成人儀礼の基本は厳しい試練とそれに耐えることにあり、現代社会では大学入試や新入社員研修などにその伝統を見ることができるでしょう。成人儀礼とは何よりイニシエーション、つまり通過儀礼なのです。
 正月という年中行事、成人式という通過儀礼。こうした行事や儀礼の一つひとつが日本人の暮らしの節目であり、人生の節目でした。私たちは、そこに美しさや安らぎを感じ、そこで感謝や祈りを学んだのです。考えてみれば、なんと豊かな精神文化でしょうか!
 また私は、年中行事や通過儀礼の背景には、共通して「時間を大切にする」思想があるように思います。人間は時の流れに区切りをつけ、時間の存在を意識することのできる存在です。無限の過去から無限の未来に向かって続いている時間は、区切らなければ認識できません。時間を小刻みに刻み、時計やカレンダーを発明して、人間は時間を目で見ることができるようにしたのです。他の動物と違い、人間のみが時間を意識できるのであり、人間は「時間的動物」であると言ってもよいでしょう。
 区切ることによって時間は認識され、時間意識が高まる。時間を大切にし、時間を有効に活用するようになる。また時間は区切ることで、目標が決まり、生活が計画的となります。だから、ある意味で時間にしばられ、時間に追われて、行動が活発となる。今日、人は手帳やスケジュール帳を携帯して行動しています。日本人が常に用事に追われ、気ぜわしく行動する習性は、実は年中「時間に追われて」いるからです。時間に追われるのは、時間を小刻みに区切り、節目をつけてきたからです。せっかちでせわしないとの批判を受けつつも、日本の社会の空気がきびきびしているのはこのためです。
 そして、一年の時間の中で最も大きな節目が、暮れと正月の一線です。日本人は何がなんでも、年内に仕事や借金や約束事を片付けて、けじめをつけなければ気がすみません。先生まで走り出すという「師走」の多忙は、日本人の特性にその原因があると言えるでしょう。狩猟や遊牧の民は、時間に追われることなく悠然としていて、年の暮れだからといって慌てる必要を感じないからです。
 稲作農耕民族である日本人は、季節に生活のリズムを合わせて暮らすため、一年を立春、春分、夏至などと24節気と、さらに土用だ節分だ、八十八夜だといった多くの雑節を設けています。つまり、季節や時間に区切りをつけて、それまでに仕事を片付けていかなければならないからです。昨年亡くなったマネジメントの父ピーター・ドラッカーなどは時間を上手に使う「タイム・マネジメント」の重要性を説いていましたが、日本人の時間感覚はある意味、驚異のタイム・マネジメントです。
 そして、時間に追われ、時間を大切にするこの民族性を、さらに加速し確実なものにしたのは、明治以降の鉄道文明の導入でした。明治の文明開化は「汽笛一声新橋」からスタートしました。しかし日本は国土が狭く細く山がちで、鉄道線路の用地を得にくかったため、線路は当初すべて単線で出発しました。単線で上り下りの運行を円滑にするには、列車の発着を正確に守らなければなりません。日本の鉄道が諸外国に比べて、時刻表どおり実に正確な理由の一つがここにあります。
 明治百年の日本には、まだ自動車のような個人交通機関はなく、鉄道のみが信頼できる唯一の国民の足でした。日本の町も村も最寄りの停車場を中心として、一日の生活リズムが決められていました。鉄道のダイヤが変われば、町中や家の生活のリズムもこれに合わせて変えねばならない。どの家にも柱時計があって、父親の出勤、子どもの通学、すべて時計に合わせて停車場に駆け出さねばならない。一分一秒を大切にしないと汽車に乗り遅れてしまい、一日が水泡に帰してしまうのです。
 このようにして明治から大正の鉄道の定刻主義が日本民族を走らせ、日本を完全にシステム化することに成功したのです。鉄道国家形成の過程で、国民はいっそう時間意識に目覚め、時計なくして生きられない定刻主義によって、特有の「けじめ意識」を持つに至ったと言えるでしょう。精密な時計工業で日本がスイスを追い抜くようになったのも、時間民族の必然の結果とみることができます。また、いわゆる「沖縄タイム」なる言葉があるように、沖縄だけは時間意識がいまだに違うという現象も、沖縄には昔も今も鉄道が走っていない事実を考えると納得できますね。
 日本人は日常、今日は大安吉日だ、友引だ、今年は酉年だ、戌年だと、時間に意味を与え、色づけして暮らしてきました。さらに、60年たったら還暦で元に戻る。生きている一生の時間を、縁起をかつぎ、意味を与えて大切にすごしてきました。これが時間民族、けじめ民族の特性です。これに対して、欧米人のように時間を物理的にしか認めなかったら、どんなに味気ない一生になることでしょう。
 私は、冠婚葬祭互助会は、結婚式や葬儀のみならず、各種の通過儀礼、さらには年中行事までをも総合的にとり行なうべきだと思っています。日本の年中行事や通過儀礼の文化を継承し、「日本的よりどころ」を守る、すなわち日本人の精神そのものを守ることこそ、互助会の使命ではないでしょうか。その意味で冠婚葬祭互助会とは、茶の湯、生け花、能、歌舞伎、相撲など、日本の伝統文化を継承する諸団体と同じ役割、いや、儀礼というさらに「文化の核」ともいえる重要なものを継承するという点において、それ以上の役割を担っているのです。
 日本人の心を豊かにする年中行事と通過儀礼の重要性を再確認しようではありませんか。

   何よりも 正月こそ楽しけれ
          成人式の 晴れ着もまぶし  庸軒