第1回
佐久間庸和
「今、なぜ礼を語るのか?」

 

 たった今、金沢から戻ってきたばかりだ。北陸大学に孔子学院なるものができて、そこの開学記念講演を務めたのである。
 日本を代表する高級料亭や高級旅館がひしめき、茶道が市民レベルにまで普及している金沢は「もてなし文化」のメッカなどと呼ばれる。その金沢で「もてなし」文化の「もとのもと」とも呼ぶべき「礼」について大いに語ってきた。もちろん「礼」は、儒教の祖である孔子が最も重んじたコンセプトである。
 最近、「思いやり 形にすれば礼となり 横文字ならばホスピタリティ」という短歌を詠んだが、東の「礼」も西の「ホスピタリティ」も結局は「思いやり」を形にしたものであり、それが「もてなし」へと発展する。
 先月は、儒教の国として知られる韓国でも、講演や大学での特別講義でたっぷり「礼」を語り、孔子学院の本場である中国でも近く講演する予定である。なぜ、私が「礼」を語るのか。少しだけ自己紹介させて頂きたい。
 私は北九州市を本社に全国各地で冠婚葬祭業を営んでいる。冠婚葬祭とは、まさに「礼」そのものである。そして、それは「人間尊重」という当社のミッションに通じる。社名のサンレーの意味のひとつに「讃礼」すなわち礼の精神を讃えることがあるように、当社は何よりも「礼」を重んじる会社である。 礼には大きく分けて二つの意味がある。人の道としての礼と、作法としての礼である。モラルとしての礼と、マナーとしての礼と言ってもよい。そして私は前者を「大礼」、後者を「小礼」と呼んでいる。
 本当の人間尊重とは礼をすることに始まる。相手を認め、相手を敬い、互いに礼をする。すべてはそこから始まるのでなければならない。互いに狎れ、互いに侮り、互いに軽んじて、何が人間尊重だろうか。そこで、人間尊重の精神を実際に「かたち」として表わすためにお辞儀や挨拶などの「小礼」、すなわちマナーとしての礼儀作法が必要になってくる。
 ケータイにおけるマナーを見てもわかるように、現代人のマナーそしてモラルは乱れに乱れきっている。自分の利益や欲望のためには、平気で他人を殺すまでに社会は荒廃してしまった。戦前までは、他人の子であろうと自分の子であろうと、「躾」や「礼儀」については国民をあげて積極的だった。それが戦後になって間違った意味での洋風化の中に「躾」「礼儀」の教育が置き去りにされ、その結果、現代の殺伐さを生み出す土壌が生まれたのである。
 日本には六百年来の伝統を持つ小笠原流礼法がある。また小笠原氏は小倉城主でもあった。お辞儀や歩き方といった「形」を通して「礼」の心を追求する礼法は、今こそ、モラル・ルネッサンスが必要とされる現代社会において輝きを放つのではないだろうか。形の乱れは心の乱れ。世直しの風を北九州から日本全国に吹かせよう! 加賀友禅や加賀料理に代表され、衣食において贅の限りを追及する金沢でも、それ以上に「立ち居振る舞い」が多くの観光客を魅了している。ファッションもグルメも究めた大人たちが最後に行き着くところは、礼である。本当にオシャレな人は所作が美しい人だ。そして、どんな人間でも分け隔てせずに平等に接することのできる人だ。
 いくらスタイリッシュな服を着て、高価な料理やワインに舌鼓を打っても、挨拶ができなかったり他人を見下すような人間はカッコ悪い。衣食足りて礼節を知った者こそが、本当に若者が憧れるカッコいい大人なのである