第6回
佐久間庸和
「別れの作法を考える」

 

 男の本性は女との別れ際ではっきりするという。幼稚な男は幼稚な別れ方しか、わがままな男はわがままな別れ方しか、臆病な男は臆病な別れ方しか出来ない。
 ならば、理想の別れ方とは何か。私は、別れる際に、たとえ痩せ我慢であっても「楽しい時間をありがとう」と握手して別れる映画のような別れ方が理想だとずっと思っていた。
 しかし最近になって、究極の別れ方とは別れないことであることに気づいた。古今東西を見渡して、女に最高にモテた男といえば、海外ではカエサル、国内では坂本龍馬が思い浮かぶ。私は最近、『龍馬とカエサル』(三五館)という著書を上梓したが、二人ともこの究極の別れ方を知っていたようだ。
 史実によると、どうやらカエサルは次々とモノにした女たちの誰一人をも決定的に切らない、つまり関係を清算しなかったようである。二十年もの間、公然の愛人であったセルヴィーリアには、愛人関係が切れた後でも、彼女の願いならば何でも叶うように努めた。  他の女たちにも同様で、イタリアの某作家によれば、カエサルこそは「女にモテただけでなく、その女たちから一度も恨みをもたれなかった稀有な才能の持主」であった。  龍馬もしかり。彼には全国に数多くの恋人やセックス・フレンドがいたようだが、すごいのは女たちがみな「私だけが龍馬の女」と思い込んでいたことだった。正式な妻としたおりょうは別としても、千葉道場で龍馬と一緒に稽古した千葉さな子なども生涯「私は坂本龍馬の妻でした」と語っていたという。
 別に男と女だけが別れではない。経営者と社員、上司と部下との別れもある。社員が退職する時は、会社としては必ず送別会を開き、退職後もOB会のような形で絶えず連絡を取るようにしたいものだ。
 世界中のどの言語でも、別れの挨拶は「また会いましょう」という意味の再会の約束である。日本語の「じゃあね」、中国語の「再見(ツァイツェン)」、英語の「See you again」,フランス語でもドイツ語でも、みんなそうだ。
 古今東西の人間たちは、再会の希望を胸に抱くことで、つらく悲しい別れを耐えてきたのかもしれない。だから、別れをつらく感じるのが相手にせよ自分にせよ、良い別れ方をするには、「また会いましょう」という再会を前提とする必要があるだろう。
 ちなみに私は、社員の送別会では必ずウクレレを弾きながら尾崎紀世彦の「また会う日まで」を歌う。
 「さよなら三角、また来て四角」で始まる数え歌がある。♪さよなら三角、また来て四角、四角は豆腐、豆腐は白い、白いはウサギ......こんな軽やかな感じで別れの挨拶をするのもいいかもしれない。別れはどうしても湿っぽくなりがちだから、こんな歌でも歌って、明るく笑いながら別れたいものである。
 それは、死別という人生で究極の別れにおいても言えると思う。私は最近、『愛する人を亡くした人へ』(現代書林)という著書を上梓したが、家族や恋人や友人などの愛する人が亡くなったとしても、必ずまた会えることを強調した。
 千の風になって会える、天国で会える、生まれ変わって会える、などなど色々な考え方があるが、いずれにしても、また会えるのである。真の別れというものは存在しないのだ。
 本連載も今回で最終回。みなさんともお別れである。それでは、さようなら。いつかまた、お会いしましょう!