2005
10
株式会社サンレー

代表取締役社長

佐久間 庸和

「いま甦る、武士道の美学

      真のラスト・サムライとは誰か」

 少し前に「ラスト・サムライ」というハリウッド映画が公開されました。たいへんな話題となり、日本でも大ヒット、アカデミー賞四部門をはじめ数々の賞にノミネートされました。この作品の舞台となったのは、一八七六年から七七年にかけての日本。最後のサムライ、勝元のモデルは急激な西欧化に異を唱えて下野し、日本国の行く末を案じて西南戦争で散った西郷隆盛です。
 私の媒酌人でもある元東急エージェンシー社長の前野徹氏は、ベストセラーとなった憂国の書を何冊も書かれている方ですが、親友である石原慎太郎都知事より「ラスト・サムライ」を薦められて観賞したそうです。そして、大いに感動するとともに、次の三つのことをあらためて痛感されたそうです。
 一つは、先人が築いた日本文明の偉大さ。公(正義)のためなら、私利私欲を排し、わが身も顧みず、強靭な精神力で敢然と戦う。営々と祖先が築いた佳き伝統や文化を必死になって守り、民族の魂を伝えようとするサムライの精神は日本人の象徴だったということ。
 二つめは、戦後社会の見るも無惨な変容ぶり。日本の歴史がはじまって二千六百六十年あまり。この間、先人が守り育て引き継いできた日本人の魂が、たった戦後六十年ですっかり溶けてなくなってしまいました。かくも短期間に伝統の精神を失った国は、世界の歴史を探してもどこにもありません。道徳心や公共心、公を大事にするサムライの精神は、いまやどこにもなく、代わって拝金主義、利己主義、刹那主義、弱肉強食主義が蔓延しているということ。
 そして、三つめは、ほのかな希望。若い日本人女性の多くが、日本の精神を貫いた勝元や、感化されてともに戦ったオールグレンに真の日本男児、大和魂を見て、非常に感激しました。若い女性たちは直感的、本能的に現在の男性のカッコ悪さに気づいているのでは、と前野氏は感じたそうです。
 カッコ悪い社会のカッコ悪い男たち。この「カッコ悪い」というキーワードは、司馬遼太郎の小説『峠』の後記に、次のように出てくるものです。
 「人はどう行動すれば美しいか。ということを考えるのが、江戸末期の武士道倫理であった。人はどう思考し、行動すれば公益のためになるかということを考えるのが、江戸期の儒教であった。明治以降、大正、昭和とカッコ悪い日本人が自分のカッコ悪さに自己嫌悪を持つとき、かつての日本人が『サムライ精神』というものを生み出したことを考えて、かろうじて自信と誇りを回復しようとしたのである」
 司馬遼太郎の描く江戸の武士道倫理が、当時の武士階級の行動基準であったのは疑いようのない事実です。同時に、健全に暮らす江戸時代の庶民の生き方と、寺子屋での勉強、武士と町民の対等な交流を通して、相互に微妙に影響しあったのだと司馬は分析しています。武士道とは武士のみの独占物ではなく、町民、庶民。女性や子どもに至るまですべての日本人が持っていた美学と言えるでしょう。
 そして、武士と町民、庶民が共有していたのは、先人から受け継いだ「恥を知る」という日本人特有の文化、倫理に他なりません。かつて日本では、親は子にこう教えました。「恥ずかしいことはするな」「人様にうしろ指を指されるな」「人様に迷惑をかけるな」...この素朴な倫理と道徳が江戸、明治の日本人の真骨頂でした。現代の日本人全体が、このこの上なく大切な「恥」という公徳心を忘れかけています。そのため最近になって、武士道を見直す動きが出てきたのかもしれません。武士道と言えば、誰しも思い浮かべるのは新渡戸稲造の名著『武士道』でしょう。
 明治三十二年(一八九九年)に刊行された英文『武士道』が、その直後の日本の目覚しい歴史的活躍を通していかに見事にその卓見を実証していったか、いまでは想像もできないほどのものでした。ことに、義和団の乱、日清戦争、日露戦争における正々堂々たる戦いぶりと、敗者への慈悲を通して、です。のみならず、自らの潔い死がありました。  こうしたふるまいは、すべて、極東の未知のこの小国における、他のどこにもない「ブシドー」という、ある生き方の極みのフォルムによるものであると知って、世界は熱狂しました。新渡戸博士は「武士道は、舞台のサムライが花道を去るがごとく、遠からず消えていく運命にある」との予言を残していましたが、栄光につつまれて昭和八年(一九三三年)に世を去りました。当然、後の世に、自分の「予言」が的中したか否かを知ることはなく。はっきり言えば、「戦後日本」は博士の予言は的中したと信じました。つまり、日中戦争から太平洋戦争にかけて、武士道は失われたのだ、と日本人自身が思ったのです。
 しかし、日露戦争に比べれば日本の欠点がすべて出たような先の戦争においても、武士道は発揮されたと私は考えています。先日、鹿児島の知覧にある「特攻平和記念館」を訪れ、それを強く実感しました。  私は、沖縄のひめゆり記念館や広島の原爆記念館のごとく戦争の悲惨な記憶をとどめる資料館として特攻平和記念館をイメージしていました。しかし、一歩館内に入るなり、身体が凍りついたような状態になりました。そこには千を超える死者の顔写真や遺書や辞世の歌などが展示されていました。遺書や辞世に書かれた字および内容はどれも立派で、現在の若者のそれとは比較にもなりません。どれにも、自分は死んでゆくけれども、残った家族や国民には健康で幸福な人生を送ってほしいというメッセージが記されていました。よく言われるように、それは軍国主義における洗脳教育のたまものかもしれません。でも、たしかに「自己犠牲」という武士道の伝統を私はそこに見たのです。南の空に散っていった神風特攻隊の少年や青年たちは、たしかにサムライでした。
 出撃の前日、数名の少年兵たちが子犬を囲んでいる有名な写真があります。朝日新聞の記者に求めに応じて撮影された写真ですが、明日出撃の命令を受けた直後の十七、十八の少年たちが、やさしい笑顔で捨てられた子犬を慰めているのです。明日、確実に死ぬとわかっているのに、子犬に思いやりをかける!私は、この写真を見たとき、泣けて泣けて仕方がありませんでした。
 『葉隠』に「武士道といふは死ぬ事と見付けたり」とあるように、かつての武士たちは常に死を意識し、そこに美さえ見出しました。生への未練を断ち切って死に身に徹するとき、その武士は自由の境地に到達するといいます。そこでもはや、生に執着することもなければ、死を恐れることもなく、ただあるがままに自然体で行動することによって武士の本分を全うすることができ、公儀のためには私を滅して志を抱けたのです。
 「武士道といふは死ぬ事」の一句は実は壮大な逆説であり、それは一般に誤解されているような、武士道とは死の道徳であるというような単純な意味ではありません。武士としての理想の生をいかにして実現するかを追求した、生の哲学の箴言なのです!そして、まさにその生の哲学を、私は知覧の記念館でくっきりと見せつけられたのです。特攻隊員は自ら死を望んだのではなく、軍部によって殺されただけではないかという意見もあろうかと思います。しかし、おそらくほとんどが死の前日に撮影されたであろう彼らの遺影には、一切を悟った禅僧のような清清しさがありました。彼らは、決して犬死にをしたのではなく、その死は武士の切腹であったと確信します。いくら長生きしても、だらだらと腐ったような人生を送る者も多いけれども、彼らは短い生を精一杯に生き、精一杯に死んでいったのではないでしょうか。  そして、戦後最大のタブーであるA級戦犯と呼ばれる人々に関しても、そこには武士道が存在したという見方があります。巣鴨のA級戦犯たちの最後の様子を記録したレポートなどを読むと、「仏室」の外の廊下で、二班に分かれた死刑囚が、手錠をはめられた手でコップを持ち、末期の水ならぬワインを飲んでから、それぞれ両脇の看守兵を見やって、「ご苦労さん、ありがとう」と声をかけたそうです。慣習からして、思いもかけないことが起こったため、これを見て感動した周囲の米軍将校たちは、わらわらと駆け寄って、手錠に手を重ねたといいます。それから、緊縛された両手を挙げての、声をかぎりの「天皇陛下万歳!」があり、二度の、ばたんという刑場の落とし戸の音が響きました。
 A級戦犯と呼ばれた人々は、むろん、聖人ではありません。それどころか多くの国民を死なせた責任、何よりも戦争に負けた責任を背負う、断罪された六人の軍人と一人の文官にすぎません。しかし、終焉を待つ心境の深さにおいて、日本人として恥ずべきものは何もありませんでした。死に方に現われない生き方はありません。そして至高の死に方を辞世に託する武士道文化は、日本しかありません。従容として死を迎える覚悟を詠んだ彼らの辞世の数々を読んで、そこに共通に表現された「平和日本の人柱」との自覚は、罪状とされた「平和・人道に対する罪」の呪わしさとは、およそ正反対のものであったのです。
 「ニュールンベルク裁判」は、東京裁判に先立つこと二年二カ月、一九四六年に死刑執行をみています。死刑宣告を受けた十二人中、一人は逃亡していましたし、ゲシュタポの巨魁、ゲーリングは執行前夜に獄中で自殺。このことが日本側の受刑者たちにわざわいして、自殺防止のため夜通し白燭電灯を煌々と独房にともされ、不眠の苦痛を強いる結果になりました。運命との正面対決を受け入れた日本人受刑者にとっては迷惑きわまりない。ついに翌日執行を通告しに現われた米軍代表団に向かって、松井石根大将は、「絞首刑で死ぬことは有難い。自殺などしたら意味がない」、東条英機は「あなたがたは警戒しすぎだ。われわれは自殺などしない。立派に死んでいってみせる」と堂々と申し渡しています。
 ナチス戦犯のほうは、そうではありませんでした。残り十人の受刑者に、即日死刑執行を告げに代表団が現われるや、ある者は「ぶっきらぼうに不機嫌な声を吐き出し」、ある者は「絶望し、罵りながら、アメリカの法廷など尊敬するものか」と毒づくありさまでした。裁判中にも、ドイツ戦犯は互いに激しく「罪をなすりあった」り、上からの命令、さらには死んだ仲間のせいでやったんだと他を告発したりの例が目立ちました。まして、死刑宣告のさいの反応は想像に余りあるものだったそうです。
 日本の場合にも、宣告の瞬間には、当然ながら暴言を吐いたり失神したりの様子が呈されるだろうと、海外の報道陣は興味津々でしたが、その期待はまったく裏切られてしまいました。自若として宣告を聴くや、静かにレシーバーをはずし、のみならず、軽く会釈して退場していく者さえあったのです。なんと皮肉なことか。東京裁判の死刑宣告のさいに、わが国の武士道は世界にその存在を広く示したのでした!A級戦犯たちの絞首刑もまた、武士の切腹だったのかもしれません。
 「世界のクロサワ」と呼ばれた黒澤明監督は、終戦直後に歌舞伎の「勧進帳」を映画化した「虎の尾を踏む男たち」を人気のエノケンらを起用して製作しました。そのときの義経や弁慶の一行は、A級戦犯の人数と同じ七人でした。黒澤監督は東京裁判の法廷を「安宅の関」に見立て、連合国側に「武士の情」を求めたのでしょうか。
 戦犯の処刑後には世界の映画史上に輝く大傑作がつくられました。その名も「七人の侍」!現在では、これらは平和の人柱となった人々へのクロサワからのオマージュだとされています。七人の死刑囚は、七人のラスト・サムライだったのです。
 現在の日本は平和を謳歌をしています。一般の人々が日常的に「死」に触れることはありません。そんななか、常に死を見つめ、それゆえ死を意識せずにはいられない紫雲閣のスタッフは、死の呪縛から解き放たれ、生の哲学を得る可能性をゆたかに持っています。つまり、サムライとなりうる。私も含めて、ぜひサンレーの中から多くののファースト・サムライが出現して、礼儀正しい日本、美意識のあるカッコよい日本を再建する礎になれればと切に願っています。
 おそれずに 死を受け容れて 美に生きる
       そこに開けり サムライの道     庸軒