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一条真也
「熊本地震とグリーフケアの未来」

 

 一条真也です。
 4月14日の夜、わたしは東京の某シティホテルのインターナショナルレストランを訪れました。日頃より親しくさせていただいている宗教哲学者の鎌田東二先生が教授を務めていた京都大学こころの未来研究センターを定年退職されました。鎌田先生は、この4月から上智大学グリーフケア研究所の特任教授に就任され、そのお祝いの会を開いたのです。同研究所の所長である宗教学者の島薗進先生(東京大学名誉教授)もご一緒でした。

■日本でのグリーフケアの在り方は

 島薗先生とわたしは生ビール、お酒を飲まない鎌田先生はペリエで乾杯しました。わたしたちは食事をしながら、大いに語り合いました。お二人の会話は大学や宗教界をめぐる環境の話題から始まり、次第に熱を帯びてきましたが、最後は日本におけるグリーフケアの在り方について熱く語り合いました。
 夜も更けてお開きの時間となり、最後にわたしが挨拶をさせていただきました。わたしは、「グリーフケア」という言葉や思想はカトリックから生まれたものであると思うが、日本におけるグリーフケアは土着的なものを無視することはできない。グリーフケアの臨床現場というべき、われわれの業界では日々、「愛する人を亡くした人」と接しており、ぜひこの経験を活(い)かして、日本のグリーフケアの発展のお役に立ちたいと訴えました。
 まずは、7月20日に上智大学でわたしが2回講義を行うことが決まりました。グリーフケアについての考え方や想(おも)いを述べさせていただきます。
 グリーフケアは2011年3月11日の「東日本大震災」で一気に認知されました。2011年は「グリーフケア元年」などと呼ばれましたが、会食後、ホテルの客室に戻ってテレビをつけたところ、熊本でM(マグニチュード)6.5の地震が発生したことを知り、大変驚きました。すべてのテレビ局がこのニュースを報じており、事の重大さが伝わってきました。その緊迫感は、3・11のときを思い起こさせました。16日の未明には同じく熊本でM7.3の大地震が発生しました。1995年の阪神淡路大震災クラスです。

■人生とは、何かを失うことの連続

 一連の地震により、多くの人々が愛する人を亡くしました。愛する人を亡くされた方々は、いま、この宇宙の中で独りぼっちになってしまったような孤独感と絶望感を感じていることでしょう。フランスには、「別れは小さな死」ということわざがあります。愛する人を亡くすとは、死別するということです。愛する人の死は、その本人が死ぬだけでなく、あとに残された者にとっても、小さな死のような体験をもたらすといわれています。
 もちろん、わたしたちの人生とは、何かを失うことの連続です。わたしたちは、これまでにも多くの大切なものを失ってきました。しかし、長い人生においても、一番苦しい試練とされるのが、自分自身の死に直面することであり、自分の愛する人を亡くすことなのです。
 わたしは冠婚葬祭の会社を経営しています。本社はセレモニーホールも兼ねており、そこでは毎日多くの葬儀が行われています。そのような場所にいるわけですから、わたしは毎日のように、多くの「愛する人を亡くした人」たちにお会いしています。その中には、涙が止まらない方や、気の毒なほど気落ちしている方、健康を害するくらいに悲しみに打ちひしがれる方もたくさんいます。亡くなった人の後を追って自殺されるのではと心配してしまう方もいます。
 「愛する人」と一言でいっても、家族や恋人や親友など、いろいろあります。
 わたしは、親御さんを亡くした人、御主人や奥さん、つまり配偶者を亡くした人、お子さんを亡くした人、そして恋人や友人や知人を亡くした人が、それぞれ違ったものを失い、違ったかたちの悲しみを抱えていることに気づきました。それは、以下のようなことだと思います。アメリカのグリーフカウンセラー、E・A・グロルマンの言葉をわたしがアレンジしました。

 親を亡くした人は、過去を失う。
 配偶者を亡くした人は、現在を失う。
 子を亡くした人は、未来を失う。
 恋人・友人・知人を亡くした人は、自分の一部を失う。

■「死」は「不幸」なのか

 日本では、人が亡くなったときに「不幸があった」と人々が言い合います。この言葉に、わたしは違和感を覚えてきました。わたしたちは、みな、必ず死にます。死なない人間はいません。いわば、わたしたちは「死」を未来として生きているわけです。その未来が「不幸」であるということは、必ず敗北が待っている負け戦に出ていくようなものです。
 わたしたちの人生とは、最初から負け戦なのでしょうか。どんな素晴らしい生き方をしても、どんなに幸福を感じながら生きても、最後には不幸になるのでしょうか。亡くなった人は「負け組み」で、生き残った人たちは「勝ち組」なのでしょうか。
 わたしは、「死」を「不幸」とは絶対に呼びたくありません。なぜなら、そう呼んだ瞬間、わたしは将来かならず不幸になるからです。死は決して不幸な出来事ではありません。愛する人が亡くなったこと、自分が残されたことの意味を考える...。この熊本地震で学んだことを糧にして、わたしは新しいグリーフケアの未来を拓(ひら)きたいと願っています。