第5回
一条真也
「本を読んで、死を超えよう!」

 

 最近、『死が怖くなくなる読書』(現代書林)という本を上梓しました。死の「おそれ」も「かなしみ」も消えていくブックガイドです。さまざまな角度から「死」に関係する本を紹介しています。その数、50冊。
 長い人類の歴史の中で、死ななかった人間はいませんし、愛する人を亡くした人間も無数にいます。その歴然とした事実を教えてくれる本、「死」があるから「生」があるという真理に気づかせてくれる本を集めました。
 わたしは、これまでに多くの本を読んできました。わが読書の最大のキーワードは「死」です。わたしは、若い頃からずっと「死」について考えてきました。そんなことを告白すると、なんだか不吉な死神のような人間だと思われるかもしれません。実際は、「死」よりももっと関心のあるテーマはありました。それは「幸福」です。
 物心ついたときから、わたしは人間の「幸福」というものに強い関心がありました。学生のときには、いわゆる幸福論のたぐいを読みあさりました。それこそ、本のタイトルや内容に少しでも「幸福」の文字を見つければ、どんな本でもむさぼるように読みました。
 そして、わたしは、こう考えました。政治、経済、法律、道徳、哲学、芸術、宗教、教育、医学、自然科学・・・人類が生み、育んできた営みはたくさんある。では、そういった偉大な営みが何のために存在するのかというと、その目的は「人間を幸福にするため」という一点に集約される。さらには、その人間の幸福について考えて、考えて、考え抜いた結果、その根底には「死」というものが厳然として在る――そのことを思い知りました。
 そんな読書経験をもつわたしが、どうしても気になったことがありました。それは、日本では、人が亡くなったときに「不幸があった」と人々が言うことでした。
 わたしたちはみな、必ず死にます。死なない人間はいません。いわば、わたしたちは「死」を未来として生きているわけです。その未来が「不幸」であるということは、必ず敗北が待っている負け戦に出ていくようなものではないかと思えたのです。  わたしたちの人生とは、最初から負け戦なのでしょうか。どんなすばらしい生き方をしても、どんなに幸福を感じながら生きても、最後には不幸になるのでしょうか。
 亡くなった人はすべて「負け組」で、生き残った人たちは「勝ち組」なのでしょうか。
 そんな馬鹿な話はないと思いませんか。わたしは、「死」を「不幸」とは絶対に呼びたくありません。なぜなら、そう呼んだ瞬間に将来必ず不幸になるからです。
 死はけっして不幸な出来事ではありません。「死」は、わたしたち人間にとって最重要テーマであると言えるでしょう。わたしたちは、どこから来て、どこに行くのでしょうか。そして、この世で、わたしたちは何をなし、どう生きるべきなのでしょうか。これ以上に大切なことなど存在しません。
 なぜ、自分の愛する者が突如としてこの世界から消えるのか、そしてこの自分さえ消えなければならないのか。これほど不条理で受け容れがたい話はありません。本書には、その不条理を受け容れて、心のバランスを保つための本がたくさん紹介されています。本書を読了された後、そのことをよく理解されると思います。
 死別の悲しみを癒す行為を「グリーフケア」といいますが、もともと読書という行為そのものにグリーフケアの機能があります。
 たとえば、わが子を失う悲しみについて、教育思想家の森信三は「地上における最大最深の悲痛事と言ってよいであろう」と述べています。じつは、彼自身も愛する子どもを失った経験があるのですが、その深い悲しみの底から読書によって立ち直ったそうです。
 本を読めば、この地上には、わが子に先立たれた親がいかに多いかを知ります。また、 自分は一人の子どもを亡くしたのであれば、世間には子を失った人が何人もいることも知ります。これまでは自分こそこの世における最大の悲劇の主人公だと考えていても、読書によってそれが誤りであったことを悟ります。
 「死」について書かれた本を読むことによって、おだやかな「死ぬ覚悟」を自然に身につけることができればいいですね。それとともに、「生きる希望」を持つことができるなら、こんなに素晴らしいことはありません。