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一条真也
「小倉原爆の真実~他人事ではない自分事」

 

こんにちは、一条真也です。
8月に入り、日本列島は夏真っ盛りですね。
わたしは、8月というのは、日本人が死者を思い出す季節であると思っています。 というのも、6日の広島原爆記念日、9日の長崎原爆記念日、12日の御巣鷹山の日航機墜落事故の日、そして15日の終戦記念日というふうに、3日置きに日本人にとって意味のある日が訪れるからです。 それはまさに日本人にとって最も大規模な先祖供養の季節である「お盆」の時期とも重なります。さて、7月26日の「毎日新聞」朝刊の1面トップに、世紀の大スクープ記事が踊りました。
そこには「八幡製鉄 原爆当日に煙幕」の大見出しが踊り、「8月9日 元職員『コールタール燃やす』」「米軍機『視界不良』一因か」「広島投下で警戒強める」の見出しで、以下のようなリード文が続きます。
「長崎に原爆が投下された1945年8月9日、米軍爆撃機B29の来襲に備え、福岡県八幡市(現北九州市)の八幡製鉄所で『コールタールを燃やして煙幕を張った』と、製鉄所の元従業員が毎日新聞に証言した。米軍は当初、旧日本軍の兵器工場があった近くの小倉市(同)を原爆投下の第1目標としていたが、視界不良で第2目標の長崎に変更した。視界不良の原因は前日の空襲の煙とする説が有力だが、専門家は『煙幕も一因になった可能性がある』と指摘した。戦後70年近く歴史に埋もれていた、原爆を巡る新たな証言として注目を集めそうだ」
じつは、この大スクープには、わたしも関わっています。
今年4月30日の14時から、わたしは「毎日新聞」の取材を受けました。取材テーマは「小倉原爆の真相」でした。その日から始まった一連の取材の成果がトップ記事として掲載されたわけです。
事の発端は、わたしが講師を務めたある講演会でした。
わたしは小倉に落ちるはずだった原爆について話しました。
そして、その真相に関する推測を述べるとともに、少し前にわたしのHPに届いた1通のメールの内容を紹介しました。そのことを伝え聞いたという「毎日新聞」の記者の方々から取材の依頼があったのです。
HPに届いたのは、工藤由美子さんという方からのメールで、3月15日のことでした。
工藤さんは、わたしが書いた小倉原爆のブログ記事を読まれたそうです。
「小倉への原爆投下が見送られたわけについて」という件名のメールには、工藤さんのお父様である宮代暁さんの中学生の頃の思い出が書かれていました。
宮代さんは中学生の頃、八幡製鉄所を守るために煙幕隊として、コールタールを燃やす作業をされていたそうです。その結果、昭和20年8月9日(原爆が小倉に投下されず、長崎に投下された日)も空を真っ黒に覆っていたそうです。工藤さんのメールの最後には、「もう、父も、85歳。もしかしたら、大事な生き証人なのかもしれないと思い、メールしました」と書かれていました。その宮代暁さんも写真入りで新聞に紹介されていました。「ああ、間に合った」と思い、わたしの胸は熱くなりました。
同紙の27面にも、関連記事が大きく掲載されています。
「煙幕で小倉原爆投下に抵抗」「戦後69年の悔恨『迷惑、長崎に』」「許されざるは市民狙ったこと」の見出しで、以下のようなリード文が続きます。
「激化する米軍の本土空襲に抵抗するための苦肉の策が、地上からの煙で上空を覆う「煙幕作戦」だった。煙幕装置で空襲を防ごうとした八幡製鉄所の元従業員らが、戦後69年を経て当時の状況を初めて証言した。煙幕が小倉への原爆投下見送りにどの程度影響したかは明らかではないが、第2目標の長崎では約15万人が被爆直後に死傷しており、作戦に携わった人たちの心にも影を落としてきた」
わたしは、「作戦に携わった人たちの心にも影を落としてきた」という一文を読み、胸を痛めるとともに、深い感慨にとらわれました。
この広島・長崎の犠牲者への配慮こそが、小倉への原爆投下回避という大作戦の存在がこれまで隠されてきた一番の原因だったと思います。いずれにせよ、小倉の人々はつねに広島と長崎の死者を忘れずに生きていかなければならないと思います。そして、米国民は人類で初めてアメリカが核兵器によるジェノサイドを実行したという事実を忘れてはなりません。
今回の記事の最後には、「八幡製鉄所の元従業員らの証言について、長崎原爆被災者協議会の山田拓民事務局長(83)は『戦後70年近くになっても原爆を巡る新しい事実が明らかになってくるのは興味深いし、これからも掘り起こしていく必要がある。煙幕を付けたことで思い悩まないでほしい。許せないのは、投下地点がどこであれ、あんな爆弾を大勢の市民がいるところを狙って落とそうとしたことだ』と語った」と書かれています。この山田事務局長の言葉で救われた思いをされた関係者も多いでしょう。
それにしても、この世紀の大スクープが生まれたのは不思議な縁によるものです。
まず、歴史資料家である古川愛哲氏が『原爆投下は予告されていた』(講談社)をお書きになり、それを読んで感動したわたしがブログに書き、それを読んだ工藤さんがわたしにメールを送って下さり、そのことをわたしが講演会で話し、それを聞いた元・毎日新聞社の関野弘氏が後輩のみなさんに話され、毎日の記者の方々がわたしに取材に来られ、わたしが工藤さんの連絡先をお教えし、記者の方々が工藤さんに連絡を取って宮代さんに取材をされました。そして、ついに今日、この記事が生まれたわけです。何か見えない大きな力によって生まれた記事のような気がします。
終戦70周年を目前にして、真実を語って下さった宮代さんには心より感謝申し上げたいと思います。
毎日新聞のみなさんも、よく頑張って下さいました。
わたしの想いをかなえていただき、感謝の気持ちでいっぱいです。
8月12日の朝、工藤さんから1通のメールが届きました。それには「ご尽力のおかげで、このまま埋れてしまうはずだった父の証言が日の目をみる事ができました。本当にありがとうごさいました。父は、かなり、嫌がっていたのですが、本日、NHKの取材を受けるようになりました。ご報告申し上げます」と書かれていました。ついにNHKが動き出しました。来年の終戦70周年=原爆投下70周年の記念番組として、ぜひNHKスペシャル「なぜ小倉に原爆が落ちなかったのか」を放映していただきたいと思います。歴史の真実が明るみになれば、多くの犠牲者の霊も浮かばれることと思います。
小倉原爆は、わたしにとって大問題です。なぜなら、わたしの「生き死に」に関わる重大事だからです。まさに、「他人事」ではない「自分事」そのものなのです。わたしにとって、8月9日は1年のうちでも最も重要な日です。わたしは小倉に生まれ、今も小倉に住んでいます。わたしは、死者によって生かされているという意識をいつも持っています。死者を忘れて生者の幸福など絶対にないと信じています。