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一条真也
「大相撲と大和魂」

 

 こんにちは、一条真也です。

 今回は、大相撲の話題です。初場所、横綱・白鵬は33回目の優勝を果たし、優勝回数で、昭和の大横綱・大鵬を抜いて単独で歴代最多となりました。


 初場所の前、白鵬は「この時代に生きている皆さんに新記録を見せたい」と語りました。前半戦は、大記録を前にしての力みがあったのか、平幕力士を相手に土俵際でのきわどい場面も見られました。しかし、後半戦に入ってからは安定感ある相撲を取り戻し、13日目に大関・稀勢の里を取り直しの一番で破り、初日から13連勝で5場所連続33回目の優勝を果たしました。

 これまで、北の湖の24回、朝青龍の25回、千代の富士の31回の優勝回数を超えてきましたが、ついに大鵬の32回の記録を44年ぶりに塗り替えたのです。


■文明開化と断髪令


 さて、初場所の初日、わたしは『相撲、国技となる』風見明著(大修館書店)という本を読みました。なぜ、わたしが2002年に刊行されたこの本を読もうと思ったか?

 それは、昨年11月23日、32度目の優勝を決めた白鵬が優勝インタビューで、「明治初期に断髪事件が起きた時、大久保利通という武士が当時の明治天皇と長く続いたこの伝統文化を守ってくれたそうです。そのことについて、天皇陛下に感謝したいと思います」と語ったことが大きな理由です。

 日本人でも知らない事実をモンゴル人の白鵬が語ったことに日本中が驚きましたが、わたしもその1人でした。そこで「文明開化」の嵐が吹き荒れた明治時代に相撲が国技となり、現在に至るまで存続していることに大きな関心を抱いたのです。ネット通販サイトのアマゾンで『相撲、国技となる』の存在を知り、早速購入して読みました。

 明治維新後から、日本中が「文明開化」の渦に巻き込まれます。そんな中で、世間では相撲無用論や相撲禁止論が起こりました。横山建堂著『日本相撲史』には、「野蛮の遺風であるとせられ、裸踊りと嘲(あざけ)られ、此(こ)の国辱的催物を速やかに禁止せよとまで極論さる」と書かれています。そして、明治4年(1871年)8月、当時の政府によって「断髪令」が布告されました。当然ながら力士は髷(まげ)を結っています。髷がなければ力士ではありません。空前の危機にあった相撲ですが、なんとか力士の髷は断髪令の例外として認められました。それでも、新しい時代を迎えるに当たって相撲への風当たりは強かったのです。

 しかし、そういった風潮を吹き飛ばしたのが明治17年3月に浜離宮延遼館で行われた天覧相撲でした。明治天皇が相撲観戦をされたことによって、東京相撲は往年の人気を取り戻したといいます。天覧相撲について、風見氏は以下のように書いています。

 「この天覧相撲は、勝ち力士に与える花を挿(さ)した花道を設けたり、行事が力士を呼び上げるなど、平安時代に盛んに行われ、以後途絶えていた宮廷での相撲節会を彷彿(ほうふつ)させるものであった。この天覧相撲は、明治天皇の信任が厚く、事実上実力一の政治家だった内務卿の伊藤博文が企画したものとされている」

 この天覧相撲は、一般庶民に先立って、実際に観覧した国政指導者層(上流階級)に、東京相撲の存在価値やステータスを認識させることに成功しました。浜離宮延遼館での天覧から2年後、両国の回向院の近くに野見宿禰神社が創設されました。野見宿禰は垂仁天皇の前で当麻蹴速と相撲をとって投げ殺し、後年、相撲の神と崇(あが)められるようになった人物です。

 ここに東京相撲は完全に日本国民から認知され、相撲は「国技」の地位を得たようです。やはり、日本におけるブランドは「天皇」と深く関わっているのですね。

 『相撲、国技となる』を通読しても、白鵬が感謝の対象として名前をあげた大久保利通はまったく登場しませんでした。代わりに伊藤博文が相撲存続の重要人物として登場します。


■維新元勲と相撲


 「週刊新潮」2014年12月4日号には「優勝32回『白鵬』がふと洩(も)らした『大久保利通』」の見出しで、1971年の「断髪令」の際に、「力士はお構いなし」と明治天皇に献言したのが大久保であるという説を紹介しています。しかし、相撲博物館の関係者は「この説が文献に残っているかは不明。力士たちに歴史を教える相撲教習所の教科書にも、該当する記述はありません」とコメントしています。


 歴史作家の桐野作人氏は、「大久保の当時の日記や書簡を見ても、相撲に関わる記述は見当たらないと述べ、さらには西郷隆盛との混同があったのではないかと推測し、以下のように語っています。

 「西郷は相撲好きで、明治天皇と相撲をとって投げ飛ばした、という逸話もあります。西南戦争で賊となった西郷の名誉回復は1889年ですが、同年、天皇は西郷の弟の従道邸に行幸しました。この時従道邸前庭で天覧相撲が供されましたが、これは兄を偲ぶよすがは相撲だ、という従道の配慮なのでしょう」

 相撲の歴史に関する古典である『日本相撲史』にも、相撲蛮風論が吹きまくった折、廟堂では西郷隆盛をはじめとした諸名士がこれに反対だったと書かれているそうです。

 わたしは、西郷隆盛が相撲好きだったというのは大いに理解できます。なぜなら、彼の本当の肖像写真は謎とされていますが、その体躯(たいく)が巨大であったことは多くの人々の証言から間違いがありません。ならば、巨体の人間は当然ながら相撲が強いはずで、それゆえ自身が得意な相撲を愛好していた可能性は大だからです。

 どこで西郷と大久保の混同が起こったのかはわかりませんが、「文明開化」の激流の中で「ラスト・サムライ」である西郷が相撲という武士道に通じる日本文化を残そうとしたことは大いに考えられます。また、相撲の丸い土俵は「和」そのものであり、「日の丸」や「円」にも通じます。

 アドバイザーの正体が伊藤であれ、西郷であれ、はたまた大久保であれ、いずれにせよ相撲存続の最終決定をしたのは明治天皇です。

 そこには日本人の「こころ」をそのまま「かたち」にした土俵に対する明治天皇の想いがあったように思います。当時は、急激な西欧化の中で、大和魂というものが希薄になっていました。明治天皇は、「相撲を残すことによって大和魂を残すのだ」と考えたのではないでしょうか。

 わたしには、そのように思えてなりません。