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一条真也
「お墓について考える」

 

 こんにちは、一条真也です。
 8月はお盆をクライマックスとする「死者を想(おも)う」季節でした。
 9月にはお彼岸があります。お彼岸には、お墓参りをします。9月は「お墓について考える」季節かもしれません。 
 お墓の「かたち」は非常に多様化してきています。従来の石のお墓もあれば、海や山に遺灰を撒(ま)く自然葬を求める人も増えてきています。遺骨を人工衛星に搭載して宇宙空間を周回させる天空葬もあれば、月面をお墓にする月面葬もあります。

■お墓は「思い出の国」

 メーテルリンクの名作『青い鳥』は、わたしの大好きな物語です。
 幸せの青い鳥を求めて、チルチルとミチルが訪れた「思い出の国」は、濃い霧の向こう側にありました。そこは、乳色の鈍い光が一面にただよう死者の国です。この「思い出の国」で、チルチルとミチルの2人は亡くなった祖父と祖母に再会します。
 そこで、おばあさんは「わたしたちのことを思い出してくれるだけでいいのだよ。そうすれば、いつでもわたしたちは目がさめて、お前たちに会うことができるのだよ」と言うのでした。わたしは、この『青い鳥』から、死者は思い出されることを何よりも望んでいるということを知りました。
 そう、思い出しさえすれば、わたしたちは、今は亡きなつかしい人たちに会えるのです。なんと素敵(すてき)なことでしょうか!
 そして、「思い出の国」をこの世では「お墓」と呼びます。
 わたしは、人間とは死者とともに生きる存在であると思います。それは、人間とはお墓を必要とする存在だということでもあります。
 現在、血縁も地縁も希薄になってきて「無縁社会」が叫ばれ、「葬式は、要らない」という葬儀不要論に続いて、「墓は、造らない」という墓不要論も取り沙汰されているようです。でも、わたしは生き残った者が死者への想いを向ける対象物というものが必要だと思います。
 以前、『千の風になって』という歌が流行したとき、「私のお墓の前で泣かないでください、そこに私はいません」という冒頭の歌詞のインパクトから墓不要論を唱える人が多くいました。でも、新聞で名古屋かどこかの葬儀社の女性社員の方のコメントを読み、その言葉が印象に残りました。それは「風になったと言われても、やはりお墓がないと寂しいという方は多い。お墓の前で泣く人がいてもいい」といったような言葉でした。その言葉を目にしたとき、すとんと腑(ふ)に落ちたような気分でした。
 わたしは、風になったと思うのも良ければ、お墓の前で泣くのも良いと思います。死者を偲(しの)ぶ「こころ」さえあれば、その「かたち」は何でもありだと思っています。そこで、これからは既存のスタイルにとらわれず、自分らしいお墓について考えるということが大切になってきます。先祖代々のお墓を引っ越さなければならないという「墓じまい」や、新たにお墓を造るという「墓じたく」も大切な問題です。

■あなたらしいお墓の「かたち」は?

 このたび、わたしは『墓じまい・墓じたくの作法』(青春新書インテリジェンス)という本を上梓(じょうし)しました。この本では、さまざまな「お墓の作法」について述べました。「お墓」をテーマにして、その過去、現在、未来に触れながら、「どのようにお墓と付き合うか」という作法についても紹介しました。
 ここで、大切な「お墓」の作法をお伝えいたします。それは「墓」と呼ばずに「お墓」と呼ぶということです。同書のタイトルは、便宜上「墓」という言葉を使っていますが、日常的にはけっして「墓」ではなく「お墓」という言葉を使ってください。 
 「墓」とは石材をはじめとした単なる物体であり、唯物論的な世界の言葉です。でも、「お墓」と呼べば、そこに「こころ」が入ります。どうも、「墓」と呼び捨てにしている人は自分自身の墓が無縁化する運命にあるような気がしてなりません。一方、「お墓」と呼ぶ人のお墓はいつまでもお参りに訪れる人が絶えないように思います。
 言葉とは、「言の葉」ということです。『万葉集』の時代、言の葉は「生命の葉」という幹から出たものとされ、生命の表現であると言われました。その言の葉には霊が宿ると考えられ、「言霊(ことだま)」と呼ばれていました。口に出した言葉が現実に何らかの影響を与える霊力を持っているとする考え方です。ですから、みなさんもまず「お墓」と呼ぶことから、はじめていただきたいと思います。
 あなたの大切な人を思い出し、その冥福を祈る「こころ」を「かたち」にする方法はいろいろとあります。お墓が遠方なのでお墓を移したい、無縁墓にしたくないので、墓じまいをしたい。共同墓地といった墓じたくをしたい...。
 あなたらしいお墓の「かたち」をぜひ考えてみてください。