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一条真也
「歌舞伎・能・花」

 

 こんにちは、一条真也です。
 久々に歌舞伎を鑑賞しました。「松竹大歌舞伎 中村翫雀(かんじゃく)改め四代目中村雁治郎襲名披露公演」で、会場は北九州ソレイユホールでした。
 襲名披露狂言として上演するのは玩辞楼(がんじろう)十二曲のうち、『双蝶々曲輪日記(ふたつちょうちょうくるわにっき)』の「引窓」でした。初世鴈治郎が家の芸として制定した十二演目の一つで、長く歌舞伎上演が途絶えていたものです。それを初世が明治29(1896)年に大阪で復活上演したのです。以来、代々の鴈治郎が南与兵衛後(のち)に南方十次兵衛を当たり役の一つにして上演を重ねてきました。
 この狂言には「親子の情」「夫婦の愛」が描かれています。特に女房のお早と交わすやりとりが見どころなのですが、そのお早は鴈治郎の息子である壱太郎です。親子で夫婦を演じる試みは初めてではないかと思いますが、歌舞伎の魅力を大いに堪能しました。

■神々に通じる芸の「花」

 演劇としての歌舞伎には華があります。「華」は「花」に通じますが、歌舞伎にはもともと「花形」や「花道」といった花にまつわる言葉があります。相撲や芝居で花形に与えるお金も「花」と呼びます。
 力士や役者への心づけを「花」というのは、まず見物のときに造花を贈って、翌日お金を届ける習慣から来たそうです。歌舞伎の「花道」も、ここを渡って客が役者に花を贈ったことから、この名がついたわけですね。「花形役者」は、客から花を贈られるほどの才能の持ち主というのが本来の意味です。
 また、芸者や遊女と遊んだ料金を「花代」といいます。これも、花に代わるものとしての金銭という意味ですね。どの言葉も、遊芸者と客のあいだの花のやりとりに起源があることに気づきます。これは、もともと花が御幣(ごへい)として神々を呼ぶ力を持っていたことにも関係があります。力士にしろ、遊女にしろ、遊芸者とは神々の代理人という役割があったわけですね。彼らは人間界の「花」でした。しかし、何よりも人間界の「花」といえば、役者に尽きるでしょう。現在でも芸能人のことをスターと呼びますが、かつては役者のことを「花」と呼んだのです。
 江戸には3つの花がありました。火事と喧嘩(けんか)は、みなさんもご存じかと思います。もう一つの花とは何か。それは、歌舞伎役者の市川團十郎でした。当時の江戸っ子たちは、口々に團十郎を「江戸の花」と讃(たた)えました。『明和伎鑑(めいわぎかん)』という本では、團十郎を役者の氏神と記していますが、とにかく「江戸の飾海老」とも「江戸の花」とも称された大スターでした。十三代目市川團十郎となるであろう市川海老蔵も、まさに天性の「江戸の花」という雰囲気を持っていますね。

■世阿弥が生んだ「花」の文化

 さて、歌舞伎という芸能は能から派生しました。その能を大成した人物こそは、室町時代の世阿弥(ぜあみ)です。世界的にもユニークな芸術論を展開した世阿弥の『風姿花伝』は、俗に『花伝書』と呼ばれるように、結局は「花」を論じた書物といってよいでしょう。
 「時分の花」「第一の花」「当座の花」「誠の花」「身の花」「外目の花」「老骨の残りし花」「時の花」「声の花」「幽玄の花」「わざよりいでくる花」「年年去来の花」「秘する花」「因果の花」「無上の花」「一且の心の珍しき花」「誠に得たりし花」などの言葉が次々に出てきます。
 あるいは、「花なくば」「花失(う)せて」「狂ふ所を花に当てん」「面白き所を花に当てん」「この道はただ花が能の命なるを」など、まるで「花の言葉辞典」と呼びたくなるほど、じつにさまざまな視点から「花」を説いています。
 世阿弥は「花と、面白きと、珍しき」の3つは同じ心であると述べています。また、「花は、見る人の心に珍しきが花なり」として、人に感銘を与えるものを花としてみています。物まね・幽玄の風姿がどうしたら人に感銘を与えうるか、その根本を世阿弥は花と見たわけです。
 中世の「たて花」は、花を否定して新しい花を発見しました。それは阿弥と呼ばれる身分の低い階層の芸人や僧侶たちが、水墨画や禅の影響によって、古代以来の日本の伝統を新たに結晶させたものでした。すなわち、日本の社会に一貫して流れてきた「いのち」のシンボルとしての花の思想と、仏教の「空」の理論とが交差して、生け花や能楽のような新しい文化としての芸道における「花」が誕生したのです。
 新しい「花」を最初に誕生させた人物こそ、世阿弥でした。芸道とは、まず世阿弥による能楽の道からはじめて生まれたとされます。その後に、茶道や花道といった言葉が生まれてきたのです。新しい「花」との深い心の語らいのなかから、詩や歌や絵が生まれ、さまざまな舞台芸術も創造されました。世阿弥は舞台で、生きた人間の「いのち」と共感しあう花を咲かせました。西行や芭蕉は花と心の会話を交わし、そのつぶやきを歌や句として残しました。利休の演じた朝顔の花一輪も、花を究めた花への執念ともいえます。
 さらには、宗達も光琳も、良寛も一茶も、それぞれに表現の違いはあれども、みなこの花の「いのち」に語りかけることをやめなかったのです。それは近代の画家や詩人を経て、現在のわたしたちにまで続いています。
 わたしたち日本人は、花を野や山に、あるいは庭に見いだします。また、舞台や茶室にも見いだします。さらには、花をそのまま着物に染め、織り出してこれを着ました。日本人ほど花の絵柄の着物を好む民族もいません。桜や梅はもちろん、藤の花とか水仙、光琳の描いた冬木小袖のようなものもあります。
 日本人は、花の彼方(かなた)に花を追いました。花を求めてやまないその執念は、ついに花を否定した花を発見して、独自の花の文化を創造したといえるでしょう。まさに、日本人にとって花と芸術は切っても切り離せないのです。
 そして、花をふんだんに飾る結婚披露宴や葬儀も立派な芸術だといえます。一般の人々が最も花に囲まれるのは冠婚葬祭の場においてです。冠婚葬祭とは花のアートでもあるのです。