第9回
一条真也
「映画で死を乗り越える」

 

 このたび、『死を乗り越える映画ガイド』(現代書林)という本を上梓した。2013年に出版された『死が怖くなくなる読書』(同)の続編である。前作では、読書によって死の「おそれ」や死別の「悲しみ」を克服することができると訴えたが、今回は映画である。
 長い人類の歴史のなかで、死ななかった人間はいないし、愛する人を亡くした人間も無数にいる。その歴然とした事実を教えてくれる映画、「死」があるから「生」があるという真理に気づかせてくれる映画、死者の視点で発想するヒントを与えてくれる映画などを集めてみた。
 わたしは映画を含む動画撮影技術が生まれた根源には、人間の「不死への憧れ」があると思っている。映画と写真という2つのメディアを比較すると、写真は、その瞬間を「封印」するという意味において、一般に「時間を殺す芸術」と呼ばれる。一方で、動画は「時間を生け捕りにする芸術」であるといえるだろう。かけがえのない時間をそのまま「保存」するからである。
 そのことは、わが子の運動会での様子などをビデオカメラで必死に撮影する親たちの姿を見てもよく分かる。「時間を保存する」ということは「時間を超越する」ことにつながり、さらには「死すべき運命から自由になる」ことに通じる。写真が「死」のメディアなら、映画は「不死」のメディアなのである。だからこそ、映画の誕生以来、無数のタイムトラベル映画が作られてきたのだろう。
 そして、時間を超越するタイムトラベルを夢見る背景には、現在はもう存在していない死者に会うという大きな目的があるのではないだろうか。わたしは、すべての人間の文化の根底には「死者との交流」という目的があると考えている。そして、映画とは「死者との再会」という人類普遍の願いを実現するメディアでもあると思う。
 映画を観れば、わたしは大好きなヴィヴィアン・リーやオードリー・ヘプバーン、グレース・ケリーにも、三船敏郎や高倉健にも、いつだって好きなときに会えるのだ。
 古代の宗教儀式は洞窟のなかで生まれたという説があるが、洞窟も映画館も暗闇の世界だ。暗闇の世界のなかに入っていくためにはオープニング・ロゴという儀式、そして暗闇から出て現実世界に戻るにはエンドロールという儀式が必要とされるのかもしれない。
 そして、映画館という洞窟的空間の内部において、わたしたちは臨死体験をするように思う。なぜなら、映画館のなかで闇を見るのではなく、わたしたち自身が闇のなかからスクリーンに映し出される光を見るからである。
 闇とは「死」の世界であり、光とは「生」の世界である。闇から光を見るというのは、死者が生者の世界をのぞき見るという行為にほかならない。つまり、映画館に入るたびに、観客は死の世界に足を踏み入れ、臨死体験するわけである。
 わたし自身、映画館で映画を観るたびに、死ぬのが怖くなくなる感覚を得るのだが、それもそのはず。わたしは、映画館を訪れるたびに死者となっているのであった。
 『死を乗り越える映画ガイド』では、「死を想う」「死者を見つめる」「悲しみを癒す」「死を語る」「生きる力を得る」の全5章にわたって、合計50本の映画を紹介した。
 「終活WEBソナエ」で紹介した作品も多い。いずれも、死の「おそれ」や死別の「悲しみ」が溶けていくような作品ばかりである。すべてDVDやブルーレイで鑑賞できる。
 映画を観て、死を乗り越えよう!