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一条真也
葬儀は人生の「卒業式」

 卒業式のシーズンである。

しかし、新型コロナウイルス感染拡大の不安が日本中を覆っており、卒業式を中止や延期にする動きも相次いでいる。

まことに残念である。卒業式というものは、本当に深い感動を与えてくれる。それは、人間の「たましい」に関わっている営みだからだと思う。

わたしは、この世のあらゆるセレモニーとはすべて卒業式ではないかと思っている。たとえば、七五三は乳児や幼児からの卒業式であり、成人式は子どもからの卒業式ではないだろうか。そう、通過儀礼の「通過」とは「卒業」のことなのだ。

結婚式も、やはり卒業式だと思う。なぜ、昔から新婦の父親は結婚式で涙を流すのか。それは、結婚式とは卒業式であり、校長である父が家庭という学校から卒業してゆく娘を愛しく思うからであろう。

そして、葬儀こそは「人生の卒業式」である。最近、わたしはいわゆる「終活」についての講演依頼が非常に多い。お受けする場合、「人生の卒業式入門」というタイトルで講演させていただくようにしている。

わたしは「死」とは「人生の卒業」であり、「葬儀」とは「人生の卒業式」であると考えているからである。日本人はよく、人が亡くなると「不幸があった」などと言うが、昔から違和感があった。人の死を「不幸」と表現しているうちは、日本人は幸福になれないと思った。

言うまでもないことだが、わたしたちは、みな、必ず死ぬ。死なない人間はいない。いわば、わたしたちは「死」を未来として生きているわけである。その未来が「不幸」であるということは、必ず敗北が待っている負け戦に出ていくようなものだ。

わたしたちの人生とは、最初から負け戦なのだろうか。どんな素晴らしい生き方をしても、どんなに幸福を感じながら生きても、最後には不幸になるのだろうか。亡くなった人は「負け組」で、生き残った人たちは「勝ち組」なのか。そんな馬鹿な話はないと思われないか?

わたしは、「死」を「不幸」とは絶対に呼びたくない。なぜなら、そう呼んだ瞬間、わたしは将来かならず不幸になるからである。死は不幸な出来事ではなく、人生を卒業することにほかならない。そして、葬儀とは「人生の卒業式」と言えよう。

最期のセレモニーを卒業式ととらえる考え方が広まり、いつか「死」が不幸でなくなる日が来ることを心から願う。葬儀の場面で、卒業式で歌われる「仰げば尊し」の歌詞のように、「今こそ別れめ いざ さらば」と言えたら素敵ではないか。

これからも、わたしは、多くの方々の「人生の卒業式」のお手伝いをさせていただきたい。