108
一条真也
「除夜の鐘を聴きながら~さよなら三角また来て四角」

 

こんにちは、一条真也です。
2010年4月12日よりスタートしたこの「一条真也の真心コラム」も今回で、なんと108回を迎えました。その間、孔子文化賞を受賞しましたし、この連載から『礼を求めて』『慈を求めて』(三五館)という2冊の著書も誕生しました。思い出がたくさん詰まったこの「一条真也の真心コラム」ですが、今回をもって一応の区切りとさせていただきます。理由は、わたしが全国冠婚葬祭互助連盟の会長に就任するなど、これまで以上に非常に多忙になり、このコラムを書く時間が取れなくなったことです。
さて、108といえば仏教における煩悩の数ですね。
なぜ、煩悩は108なのでしょうか。「京都新聞」2006年12月25日朝刊によれば、「煩悩」とは、仏教では心身を乱し、悩ませ、正しい判断を妨げる心の動きをいいます。
108の煩悩には4つの説 があり、それは以下の通りです。
1. 人の体や動きを意味する六根(眼、耳、鼻、舌、身、意)と、三種(好、悪、平)を掛ける、心をけがす六塵(色、声、香、味、触、法)と三受(苦、楽、捨)を掛ける。掛けたものを足すと計36。さらに三世(過去、現在、未来)を掛けると108になる。
2.人生の苦悩の根本原因の四苦(生、老、病、死)と八苦(愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五陰盛苦、四苦)の語呂合わせで、四苦(4×9)と八苦(8×9)を足すと108つになる。
3.1年の気候を合計。 12カ月、立春や大寒などの二十四節気、旧暦で5日間を一候として一年を分けた七十二候を足すと108つになる。
4.倶舎宗では、煩悩を「見惑」(四つの真理をみることですぐに断たれる煩悩)と、「修惑」(修行によって断たれる煩悩)に分ける。 見惑は10の根本煩悩に分けられ、それぞれ俗界、色界、無色界の三つの境遇があり、その三つの境遇には、苦諦、集諦、減諦、道諦、の4種類がある。 すべてを掛け合わせると120だが、そのうちに除かれるものがあり、さらに修惑の三つの界を足すと98。 それに心を縛って修繕を妨げる十纏を加えて108つとなる。
それぞれの説には不思議な説得力があり、それなりに根拠がありそうですね。
さて、その根拠は置いておいて、108の煩悩を祓うのが「除夜の鐘」です。
いま、12月31日の大晦日、日本各地で除夜の鐘が鳴っていることでしょう。
じつは、除夜の鐘の起源は詳しく分かっていないそうです。
先に紹介した「京都新聞」の記事には、仏教大学文学部の安達俊英教授の談話が紹介されています。それによると、中国の宋に起源があり、鎌倉時代に禅寺に伝わったといわれるとか。 葬式や地蔵盆など、現在のような仏教行事が一般化したのは、室町時代からです。安達教授は「推測だが、室町時代に村の自治意識が高まり、宗教行事も自分たちで行おうとした。除夜の鐘も、そんな意識から室町時代に広がり始め、江戸時代に一般寺院でも行うようになったのであろう」と述べています。
とても心地よい重低音を響かせる梵鐘ですが、現代は「受難の時代」でもあるようです。新聞には、京都府右京区で梵鐘を鋳造している「岩澤の梵鐘」の岩澤一廣社長の談話が紹介されていますが、最近の傾向として「寺院の周辺が宅地開発され、高い音だと苦情が出やすく、低い音にしてくれという注文が多い」そうです。岩澤社長は「最近は鐘の受難の時代。大晦日には、百八回といわず、200回、300回と撞くお寺がある。四国霊場八十八ヵ所では、一日に1,000回というところもありますよ」と述べています。 逆に、葬儀の現場では各地で鐘の音が人気を呼んでいます。2013年10月に北九州市小倉北区霧ヶ丘にオープンしたセレモニーホール「霧ヶ丘紫雲閣」では、「禮鐘の儀」という新しい儀式が行われています。これは、出棺の際に霊柩車のクラクションを鳴らさず、鐘の音で故人を送るセレモニーです。
現在、日本全国の葬儀では霊柩車による「野辺送り・出棺」が一般的ですね。
大正時代以降、霊柩車による野辺送りが普及し、現在に至るまで当たり前のように出棺時に霊柩車のクラクションが鳴らされています。紫雲閣では昨今の住宅事情や社会的背景を考慮し、出棺時に霊柩車のクラクションを鳴らすのではなく、禮の想いを込めた鐘の音による出棺を提案しています。
この鐘が鳴るたびに、故人の魂が安らかに旅立たれ、愛する人を亡くした方々の深い悲しみが癒され、さらには日本人の心が平安になることを願っています。
このコラムでも何度も述べてきましたが、わたしは「死」とは「人生を卒業すること」であり、「葬儀」とは「人生の卒業式」であると考えています。
卒業式でもっとも多く使われる言葉は、やっぱり「さようなら」でしょう。
結婚式や葬儀をはじめ、冠婚葬祭業は「別れ」をドラマティックに表現する、さようなら産業なのです。
そして、そこから魂を揺り動かす感動が生まれます。
さようなら産業などと言うと、なんだか淋しく悲観的な感じがしますが、この「さようなら」は卒業式における「さようなら」であることを忘れてはなりません。
すなわち、「さようなら」の後には、「おめでとう」と「ありがとう」の言葉が待っているのです。
「さよなら三角、また来て四角」で始まる数え歌がありますが、あんな軽やかな感じで別れの挨拶をするのも良いかもしれません。あの数え歌は日本全国で歌われていましたが、さまざまなバージョンがあるようです。わたしが子どもの頃は、「さよなら三角、また来て四角、四角は豆腐、豆腐は白い、白いはウサギ、ウサギははねる、はねるはカエル、カエルは青い、青いはバナナ、バナナはすべる、すべるは氷、氷は光る、光るは親父(おやじ)のハゲ頭」と歌っていたように記憶しています。  私たちも、明るく笑って、「この世」という学校を卒業したいものですね。
それでは、みなさん、そろそろお別れです。長い間、このコラムを愛読していただき、本当にありがとうございました。最後に、みなさんには「さようなら 辛いときには笑顔みせ さよなら三角 また来て四角」という歌をお贈りしたいと思います。みなさん、さようなら。いつかまた、きっとお会いしましょう!