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一条真也
「愛犬の墓〜神から遣われた人間の友達」

 

こんにちは、一条真也です。
大切な家族の一員だった愛犬ハリーが亡くなって、49日目が経ちました。すなわち、「四十九日」を迎えたわけです。この期間は、仏教でいう「中陰」であり「中有」です。死者が生と死、陰と陽の狭間にあるため「中陰」と呼ばれるわけですが、あの世へと旅立つ期間を意味します。
もちろん、ハリーは人間ではありません。でも、わたしにとっては、また家族にとっては、かけがえのない存在でした。
ハリーの「四十九日」を迎える前日、次女と一緒に動物病院に行きました。
飼っているティミーという名のウサギの目に異常を発見したので、連れて行ったのです。
待合室でティミーを抱いて診察を待っていたら、診察室の扉が開いて、看護婦さんがある家族に向かって「どうぞ、お入り下さい」と声をかけました。
すると、おじいちゃん、おばあちゃん、高校生の長女、中学生の次女、小学生の三女とおぼしき人々がゾロゾロと中に入って行きます。
チラッと診察室の中が見えたのですが、診療台の上に小さな棺が置かれていました。
そして、「うわーん!」という女の子の泣き声が聞こえてきました。
「ワンちゃん、起きて!」「ワンちゃん、起きて!」と叫んでいます。
おそらく「ワンちゃん」という名の愛犬の臨終の場面なのだと推察されました。
小学1・2年生ぐらいの女の子は、「ワンちゃんが死んじゃうなんてイヤだ〜!」と泣き叫んでいました。
診察室の中にはお父さんとお母さんもいたようで、総勢7名の家族全員で泣いていました。それを見て、わたしは「ああ、どこの家でも、悲しみは同じように訪れるのだなあ」と思いました。
そして、おじいちゃん、おばあちゃんはかなりの高齢に見えたのですが、「そう遠くない将来、この二人も人生を卒業していくだろう」と思いました。
そのとき、女の子はまた大いに泣くことでしょう。
でも、今日の悲しみが、今日の涙が、その日のためのレッスンになります。
ワンちゃんは、女の子にとても大切なことを教えてくれたのです。これほど家族から惜しまれながら、この世を旅立って行ったワンちゃんは、きっと幸せだったでしょう。
わたしたち家族も、ハリーを心から惜しみ、感謝の念とともに送り出してあげました。
ハリーを失ってからの喪失感は、思った以上にこたえました。
わたしにとって、どれだけ大切な存在であったかを思い知らされました。
人類にとって最初の友は犬だったそうです。「GOD」を逆にすると「DOG」になりますが、犬とは神から遣わされた人間の友なのかもしれません。特に縄文時代などの狩猟社会において犬は人間にとって最高のパートナーで、人間と犬が一緒に埋葬された例もあるようです。
わたしは、とりあえず庭にハリーの墓を作ってあげました。
ハリーが大好きだった庭の大好きな場所に穴を掘って、骨を埋めてあげました。
池の脇にある築山の中で、ここなら我が家の全体が見渡せます。
すぐ近くの木の枝に生前の小屋に掲げていた「Harry's House」の表札をかけました。
きっと、ハリーも寂しくないと思います。娘たちが学校から帰るのを待ち、みんなで一緒に穴に土をかけ、長女がわざわざ買ってきたインドの線香に火をつけました。
現在、葬式無用論に続いて墓無用論が取り沙汰されているようです。
わたしは、地球人類みんなの墓としての「月面聖塔」の建立を願う人間です。
でも、この地上における墓もやはり必要ではないかと思います。
何より、生き残った者が死者への想いを向ける対象物というものが必要だと思います。
以前、「千の風になって」が流行したとき、「私のお墓の前で泣かないで下さい、そこに私はいません」という冒頭の歌詞のインパクトから墓無用論を唱える人が多くいました。
でも、新聞で東北地方の葬儀社の女性社員の方のコメントを読み、その言葉が印象に残りました。
「風になったと言われても、やはりお墓がないと寂しいという方は多い。お墓の前で泣く人がいてもいい」といったような言葉でした。
わたしは、風になったと思うのも良ければ、お墓の前で泣くのも良いと思います。死者を偲ぶ〈こころ〉さえあれば、その〈かたち〉は「何でもあり」だと思っています。
ハリーの墓の前で佇んでいると、どこからともなく風が吹いてきました。そのとき、わたしは、「ああ、ハリーは風になったのではなく、もともと風だったんだ!」と悟りました。
わたしは、ハリーとよくフリスビーをしました。
ハリーとフリスビーをするとき、たまらなく自由を感じました。
本当にドッグランというのは美しいと心から思いました。
イングリッシュ・コッカースパニエル犬の長い毛が全力疾走によってエレガントに流れるさまに、たまらなく風を感じ、わたしの心が自由になったのです。
風鈴は聴覚によって、風車は視覚によって風を感じさせるものとされます。
しかし、ドッグランは「ヘヴンズ・ブレス」すなわち「天の息」であり、生命現象のメタファーとしての風をそのまま表現しているのです。
フリスビーを追って駆け出すハリー、そしてフリスビーをキャッチして駆け戻るハリーは「天の息」そのもの、すなわち風そのものでした。
もともと風だったハリーは、そのまま風として空を吹き渡っているのです。
そして、わたしが墓の前に立つとき、優しいハリーはきっと墓の中に入ってくれるのでしょう。
わたしは、ハリーの墓の前で手を合わせ、心から祈りました。
ほんの少しだけ涙を流し、それから風になったハリーを感じました・・・
2010.10.31