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一条真也
「呪いの物語 癒しの物語

 〜葬儀が無かったら人類は絶滅していた?」

あけまして、おめでとうございます。一条真也です。
今年も、どうぞ、よろしくお願いいたします。
今回は、物語というものについて考えてみたいと思います。
人間とは物語を必要とする存在ではないでしょうか。 
昨年末の日本列島を揺るがせた話題といえば、歌舞伎俳優・市川海老蔵が暴行をい受けた事件です。
それに関わる某スポーツ新聞の記事に興味を惹かれました。
それは、市川海老蔵の今回の災難は、市川家にかけられた「呪い」だというものでした。梨園関係者の多くは、市川家にまつわる不幸の系図に気づいており、中には「呪いだ」と断言する人もいるとか。 
現在の海老蔵は、歌舞伎界の名門中の名門である市川團十郎家の第11代目に当たります。
この一族、初代が舞台で刺殺され、2代目は歌舞伎界の大スキャンダルとされた「絵島生島事件」に巻き込まれました。
また、4代目は22歳で病死、5代目は長男が自殺、6代目は割腹自殺、7代目は舞台に立つことなく41歳で死去、8代目も41歳で死去、9代目は酒の飲みすぎで胃がんで死去、10代目の現團十郎は白血病を患いました。
このように、市川團十郎家は不幸続きの家系だというのです。 
一族の「呪い」は、なんと市川家秘伝の技である「にらみ」芸に由来するという説もあるそうです。「にらみ」にはある種の呪術的なパワーがあり、それをできなくするために顔面を粉砕される悲劇に見舞われたというのです。
まあ、ここまで来れば、某スポーツ新聞社得意のファンタジーの世界ですが。
ところで、わたしは最近、ある70代の女性とメールのやり取りをしています。金沢にお住まいの大浦静子さんという方です。わたしのブログを愛読されているそうですが、数年前、郁代さんという最愛の娘さんを看取られました。また、娘の郁代さんとの最後の日々を綴った『あなたにあえてよかった』(北國新聞社)という著書もあります。
郁代さんの最後の日々は、2007年の「24時間テレビ」で取り上げられました。ちょうど同番組の30回記念だったそうですが、そのオープニングで20分ほどの再現ドラマが放映されたのです。
郁代さんは、自分の最期の時を悟られてからお別れの旅をはじめられ、国内および海外で30人のお友達に会い続けられたそうです。
そのとき、日本武道館で秋川雅史さんが「千の風になって」を歌い上げました。
郁代さんのお母さんである大浦静子さんは、金沢で開かれたわたしの講演会に来て下さったのですが、その日、金沢には初雪が降りました。
その後、大浦さんから届いたメールには、亡き郁代さんが、九州から来たわたしのために金沢に初雪を降らしてくれたと書かれていました。
そういえば、大浦さんのメールには「これも郁ちゃんの仕業かもしれませんね」という言葉がよく出てくることに気づきました。
わたしは、亡き我が子を想う母心に感動するとともに、あらためて、人間には「物語」というものが必要であることを痛感しました。
葬儀というものの本質も、じつは物語と深く関わっています。
愛する人が死去する。その人が消えていくことによる、これからの不安。
残された人は、このような不安を抱えて数日間を過ごさなければなりません。
心が動揺していて矛盾を抱えているとき、この心に儀式のようなきちんとまとまった「かたち」を与えないと、人間の心にはいつまでたっても不安や執着が残ります。
この不安や執着は、残された人の精神を壊しかねない、非常に危険な力を持っています。
この危険な時期を乗り越えるためには、動揺して不安を抱え込んでいる心に、ひとつの「かたち」を与えることが求められます。まさに、葬儀を行う最大の意味はここにあります。
では、この儀式という「かたち」はどのようにできているのでしょうか。
それは、「ドラマ」や「演劇」にとても似ています。
死別によって動揺している人間の心を安定させるためには、死者がこの世から離れていくことをくっきりとしたドラマにして見せなければなりません。
ドラマによって「かたち」が与えられると、心はその「かたち」に収まっていきます。すると、どんな悲しいことでも乗り越えていけるのです。
それは、いわば「物語」の力だと言えるでしょう。わたしたちは、毎日のように受け入れがたい現実と向き合います。そのとき、物語の力を借りて、自分の心のかたちに合わせて現実を転換しているのかもしれません。
つまり、物語というものがあれば、人間の心はある程度は安定するものなのです。
逆に、どんな物語にも収まらないような不安を抱えていると、心はいつもぐらぐらと揺れ動いて、愛する人の死をいつまでも引きずっていかなければなりません。
死者が遠くに離れていくことをどうやって表現するかということが、葬儀の大切なポイントです。それをドラマ化して、物語とするために、葬儀というものはあるのです。たとえば、日本の葬儀の九割以上を占める仏式葬儀は、「成仏」という物語に支えられてきました。葬儀の癒しとは、物語の癒しなのです。
わたしは、「葬儀というものを人類が発明しなかったら、おそらく人類は発狂して、とうの昔に絶滅していただろう」と、ことあるごとに言っています。
あなたの愛する人が亡くなるということは、あなたの住むこの世界の一部が欠けるということです。
欠けたままの不完全な世界に住み続けることは、かならず精神の崩壊を招きます。
不完全な世界に身を置くことは、人間の心身にものすごいストレスを与えるわけです。
まさに、葬儀とは儀式によって悲しみの時間を一時的に分断し、物語の癒しによって、不完全な世界を完全な状態に戻すことに他ならないのです。
そう、人間は「物語」を必要とする存在です。
市川家の不幸の系図は、「呪い」の物語です。郁代さんがわたしのために初雪を降らせてくれたのは、「癒し」の物語です。
「葬式は、要らない」という人もいれば、「無縁社会」の恐怖を声高に叫ぶ人もいます。
「呪い」は発生したとたん、どんどん自己増殖していきます。 
それこそ、不幸のチェーン・メールのように。
わたしたちは、「癒し」の物語をこそ語り、「かたち」にしなければなりません。
そして、その「癒し」の物語を広く伝えていかなければなりません・・・
2011.1.15