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一条真也
第十二則「人間力」

 

 最終回となる今月のテーマは「人間力」である。このたびの未曾有の大災害である「東日本大震災」では、多くの人々の生命が奪われ、多くの人々が避難所での苦労を強いられている。毎日のように流される悲惨なニュースを見ながら、私は「人間を救うものは人間しかいない」ということを痛感した。
 東日本大震災の死者の数(約1万5,000人)は、増加する一方だが、遺体の埋葬が追いついていないのが現状である。施設の損壊や灯油不足などで火葬が進まず、土葬が行われているエリアもある。
 埋葬という行為は「人間の尊厳」に直結している。人間にとって、葬儀とはどうしても必要なもの。そして、葬儀をあげる遺族にはどうしても遺体が必要であった。
 このたびの大震災では、これまでの災害にはなかった光景がみられた。それは、遺体が発見されたとき、遺族が一同に「ありがとうございました」と感謝の言葉を述べ、何度も深々と礼をしたことである。
 従来の遺体発見時においては、遺族はただ泣き崩れることがほとんどだった。しかし、この東日本大震災は、遺体を見つけてもらうことがどんなにありがたいことかを遺族が思い知ったはじめての災害だったように思う。
 儒教の影響もあって日本人は遺体や遺骨に固執するといわれるが、やはり亡骸を前にして「哀悼の意を表したい」「永遠のお別れをしたい」というのは人間としての自然な人情ではないだろうか。飛行機の墜落事故も、テロも、地震も、人間の人情にそった葬儀をあげさせてくれなかったのである。
 さらに考えるなら、戦争状態においては、人間はまともな葬儀をあげることができない。先の太平洋戦争においても、南方戦線で戦死した兵士たち、神風特攻隊で消えていった少年兵たち、ひめゆり部隊の乙女たち、広島や長崎で被爆した多くの市民たち、戦後もシベリア抑留で囚われた人々......、彼らはまったく遺族の人情に沿った遺体を前にしての「まともな葬儀」をあげてもらうことができなかったのだ。
 逆にいえば、まともな葬儀があげられるということは、いまが平和だということなのだ。私はよく「結婚は最高の平和である」と語るのだが、葬儀も「平和」に深く関わった営みなのである。
 また私は常々、「死は最大の平等である」と語っている。すべての死者は平等に弔われなければならない。価格が高いとか、祭壇の豪華さとか、そんなものはまったく関係ない。問題は金額ではなく、葬儀そのものをあげることなのである。葬儀とは、人間の「こころ」に関係するものであり、もともと金銭の問題ではないからだ。
 福島では、原発事故による影響で誰も遺体に近づけず放置された。これまで「ハイテク」の象徴であった日本のロボットを使えばいいのにと思ったのだが、放射線汚染といった極限の世界ではロボットは使い物にならないとか。やはり、最後は人間しか頼りにならないのだ。
 未来のフューネラルビジネスというものを考えた場合、すべてオートメーション化された「無人斎場」というのはありえない。支配人だけがいる「ワンマン斎場」というのもありえない。
 いくら科学技術が進もうが、葬儀とは、どこまでも人間が人間に対して提供する究極のサービスなのである。
 経営も、結局は人間だ。まだまだ日本では、仕事と同時に「あの人の下で仕事をしてみたい」と思うビジネスマンが多く存在する。そう思わせるのは、やはり経営者や上司の人徳であり、人望であり、人間的魅力だろう。すべての組織は結局、人間の集まりにほかならない。人を動かすことこそ、経営の本質なのだ。最後には「人間力」が物をいうのである。
 そして、人間力とは何かというと、他人を思いやり、それを形にする力である。いわば「霊能力」ならぬ「礼能力」と呼べる力のことだ。
 「仁」や「慈悲」や「隣人愛」といったものを形にすることを「礼」という。それは、「ホスピタリティ」と同義語と言ってよい。お客様はもちろん、上司でも同僚でも部下でも、そして家族や親族や隣人でも、相手への「思いやり」の心をもち、それを形にする。
 すべては、礼能力という名の人間力にかかっているのではないだろうか。人間がもつ最強の力が人間力なのだ。