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一条真也
「マナーについて考える

 〜本当に大切なものは、目に見えない」

こんにちは、一条真也です。
あいかわらず政局が混迷していますが、最近、一連の発言の責任を取って、震災復興担当相が辞任しました。
わたしも、その大臣が岩手・宮城両県知事と会談して以来、その動向がずっと気になっていました。 その辞任した大臣は九州を地盤とする政治家ですので、わたしとも共通の知り合いとかは多いです。もちろん、わたしも御本人にはパーティーなどでお会いしたことがあります。
これまでは、そこまで傍若無人な人だという認識はなく、逆に「温厚な紳士」という印象さえ持っていました。その方の政治的信条についてはよくわかりませんが、東北でのマナーについてはいろいろと考えさせられました。
特に、宮城県庁を訪問したとき、「応接室で客人が先に入って待たされた」ということで立腹したということに興味を抱きました。
こういったマナーに関することは、わたしの専門分野でもありますので・・・。
その大臣によれば、迎える側が先に応接室に入って迎え入れるのが常識であり、客を待たせるなど自衛隊ではありえないとのこと。
果たして、これはマナーとして正しいのか?
メールや電話で、わたしも多くの方々から質問を受けました。
そのとき、わたしは以下のようにお答えしました。
大組織のトップの執務室には、応接スペースがあるところもあります。
しかし、普通は応接室は別になっているところが多いようです。お客様が来られたら、まずは早く座っていただき、お茶などをお出しするのがマナーと言えます。
ウエイティングスペースと会談を行う場所が別であれば、ホストがウエイティングスペースにゲストをお迎えにいって会談場所へとエスコートするのがマナーです。
しかし、来訪時間の読めないお客様には、まずは応接すべき部屋に入っていただいて座っていただきます。ちなみに、わが社もこのスタイルでお客様をお迎えしています。
また、自分が他人様の応接間に入ったとき、気をつけていることがあります。
応接間というのは、花が活けてあったり、さまざまな掛け軸や絵画などが飾られていたりします。それらは、来客を楽しませるために飾っていることが多いのです。ですから、わたしは必ずそれらの話題に触れ、しばらくはそれで会話を続けます。この時間が、本題に入る前のウォーミングアップになるのです。
わたしのマナー観は、小笠原流礼法に基づいています。
「思いやりの心」「うやまいの心」「つつしみの心」という三つの心を大切にする小笠原流は、日本の礼法の基本です。特に、冠婚葬祭に関わる礼法のほとんどすべては小笠原流に基づいています。
そもそも礼法とは何でしょうか。
原始時代、わたしたちの先祖は人と人との対人関係を良好なものにすることが自分を守る生き方であることに気づきました。 自分を守るために、弓や刀剣などの武器を携帯していたのですが、突然、見知らぬ人に会ったとき、相手が自分に敵意がないとわかれば、武器を持たないときは右手を高く上げたり、武器を捨てて両手をさし上げたりしてこちらも敵意のないことを示しました。
相手が自分よりも強ければ、地にひれ伏して服従の意思を表明し、また、仲間だとわかったら、走りよって抱き合ったりしたのです。このような行為が礼儀作法、すなわち礼法の起源でした。身ぶり、手ぶりから始まった礼儀作法は社会や国家が構築されてゆくにつれて変化し、発展して、今日の礼法として確立されてきたのです。
ですから、礼法とはある意味で護身術なのです。
剣道、柔道、空手、合気道などなど、護身術にはさまざまなものがあります。しかし、もともと相手の敵意を誘わず、当然ながら戦いにならず、逆に好印象さえ与えてしまう礼法の方がずっと上ではないでしょうか。まさしく、礼法こそは最強の護身術なのです。
さらに、わたしは、礼法というものの正体とは魔法に他ならないと思います。
フランスの作家サン=テグジュペリが書いた『星の王子さま』は人類の「こころの世界遺産」ともいえる名作ですが、その中には「本当に大切なものは、目には見えない」という有名な言葉が出てきます。
本当に大切なものとは、人間の「こころ」に他なりません。
その目には見えない「こころ」を目に見える「かたち」にしてくれるものこそが、立ち居振る舞いであり、挨拶であり、お辞儀であり、笑いであり、愛語などではないでしょうか。それらを総称する礼法とは、つまるところ「人間関係を良くする魔法」なのです。
魔法使いの少年を主人公にした『ハリー・ポッター』シリーズが世界的なベストセラーになりましたが、「魔法」とは正確にいうと「魔術」のことです。
西洋の神秘学などによれば、魔術は人間の意識、つまり心のエネルギーを活用して、現実の世界に変化を及ぼすものとされています。ならば、相手のことを思いやる「こころ」のエネルギーを「かたち」にして、現実の人間関係に変化を及ぼす礼法とは魔法そのものなのです。
わたしは故・小笠原忠統先生から礼法を学びました。忠統先生は長く日本の礼法界のリーダーだった方です。先生は『図解 小笠原流礼法入門 立ち居振舞い』(中央文芸社)という監修書を残されていますが、その中に「席に案内する」という項目があります。
そして、そこには「自分で案内する場合は、客を先に部屋に招き入れます」と書かれています。つまり、宮城県知事の振舞いは別に非礼ではなかったわけですね。まあ、大臣が言いたかったのは「自分は一国の大臣であり、一地方の県の知事よりも格上である」ということではないでしょうか。国の大臣を迎えるのに、格下の県知事が後から入ってくるのは無礼千万ということなのでしょう。
もちろん、この考え方は誰が考えてもおかしいですね。
知事はけっして大臣より格下ということはありません。
また、被災地入りした復興相は「お客さん」ではないはずです。
それにしても今回の一件は、「礼とは何か」を考え直す良い機会であったと思います。
最後に言わせてもらうなら、「礼」は他人に求めるだけのものではありません。
「礼」とは、何よりも自分自身が実行するものではないでしょうか。
2011.8.1