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一条真也
「お盆は、要らない?〜今こそ考えてほしい」

 

こんにちは、一条真也です。
暑かった8月が終わりました。
東日本大震災からちょうど5ヶ月が経過した8月11日、被災地では、慰霊祭や精霊流しなどが行われました。
それに先立ち、津波の被害に遭った三陸海岸では犠牲者の捜索が行われました。
「悲しみの共同体」と化した日本は、その数日後にお盆を迎えました。
そう、年間で最も死者を思い出す季節が、今年もやってきたのです。
以前も書いたように、8月というのは日本人にとって鎮魂の季節です。
というのも、6日の広島原爆の日、9日の長崎原爆の日、12日の御巣鷹山の日航機墜落事故の日、そして15日の終戦記念日というふうに、3日置きに日本人にとって意味のある日が訪れるからです。そして、それはまさに、日本人にとって最大の供養の季節である「お盆」の時期と重なります。
「盆と正月」という言葉が今でも残っているくらい、「お盆」は過去の日本人にとっての楽しい季節の一つでした。 1年に1度だけ、亡くなった先祖たちの霊が子孫の家に戻ってくると考えたからです。 日本人は、古来、先祖の霊に守られることによって初めて幸福な生活を送ることができると考えていました。 その先祖に対する感謝の気持ちが供養という形で表わされたものが「お盆」なのです。
1年に1度帰ってくるという先祖を迎えるために迎え火を燃やし、各家庭にある仏壇でおもてなしをしてから、再び送り火によってあの世に帰っていただこうという風習は、現在でも盛んです。 同じことは春秋の彼岸についても言えますが、この場合、先祖の霊が戻ってくるというよりも、先祖の霊が眠っていると信じられている墓地に出かけて行き、供花・供物・読経・焼香などによって供養するのです。
こういった一連の供養は、仏教の僧侶によって執り行われます。
昨年、「葬式は、要らない」と言った人がいました。
その後、「葬式仏教」と呼ばれる日本仏教への批判の論調が盛り上がりました。 しかし、これまでずっと日本仏教は日本人、それも一般庶民の宗教的欲求を満たしてきたことを忘れてはなりません。その宗教的欲求とは、自身の「死後の安心」であり、先祖をはじめとした「死者の供養」に尽きるでしょう。
「葬式仏教」は、一種のグリーフケアにおける文化装置だったのです。
大田俊寛氏という若き宗教学者がいます。わたしは、日本宗教学界の期待の新星だと思っていますが、彼は著書『オウム真理教の精神史』(春秋社)で次のように書いています。
「人間は生死を超えた『つながり』のなかに存在するため、ある人間が死んだとしても、それですべてが終わったわけではない。彼の死を看取る者たちは、意識的にせよ無意識的にせよ、そのことを感じ取る。人間が、死者の肉体をただの『ゴミ』として廃棄することができないのはそのためである。生者たちは、死者の遺体を何らかの形で保存し、死の事実を記録・記念するとともに、その生の継続を証し立てようとする。そしてそのために、人間の文化にとって不可欠である『葬儀』や『墓』の存在が要請される。そこにおいて死者は、『魂』や『霊』といった存在として、なおも生き続けると考えられるのである」
大田さんは、自身のHP「グノーシス的思索」において、次のような非常に考えさせられるコメントをわたしに寄せて下さいました。 「伝統仏教諸宗派が方向性を見失い、また、一部の悪徳葬祭業が『ぼったくり』を行っていることは、否定できない事実だと思います。しかしだからといって、『葬式は、要らない』という短絡的な結論に飛びついてしまえば、そこには、ナチズムの強制収容所やオウム真理教で行われていた、『死体の焼却処理』という惨劇が待ちかまえているのです。社会のあり方全体を見つめ直し、人々が納得のいく弔いのあり方を考案することこそが、私たちの課題なのだと思います。とても難しいことですが」
わたしは、この大田氏の意見に大賛成です。火葬の場合なら、遺体とはあくまで「荼毘」に付されるものであり、最期の儀式なき「焼却処理」など許されないことです。
そして、大田氏は宗教の核心には死者儀礼があることを理解されているようです。今後の研究として、「喪の仕事」の実態をミクロな視点から捉え直すというテーマに取り組んでみたいと考えておられるそうで、非常に楽しみです。
さて、今年の夏、東北の被災地が震災の犠牲者の「初盆」を迎えました。
この「初盆」は、生き残った被災者の心のケアという側面から見ても非常に重要です。
通夜、告別式、初七日、四十九日・・・・・と続く、日本仏教における一連の死者儀礼の流れにおいて、初盆は1つのクライマックスでもあります。
日本における最大のグリーフケア・システムと言ってもよいかもしれません。
多くの方々の悲しみが、この初盆で少しでも軽くなることを願っています。
そして、次の大事なことを忘れてはなりません。
それは、基本的に葬儀がなければ、初盆はないということです。
葬儀があって、初七日や四十九日があって、初盆が来るのです。
小学校に入学しなければ運動会や修学旅行を経験できないように、葬儀をきちんと行わなければお盆というのは来ないのです。 もちろん、それは立派な葬儀である必要はありません。
セレモニーホールや祭壇もあるに越したことはありませんが、なくても別に構いません。大切なのは、死者を悼み、送るという「こころ」であり、葬儀という「かたち」です。
また、一部の被災地では火葬ではなく集団土葬がなされました。
さらに、いくら葬儀をしたくても遺体が見つからず、葬儀が行われないままの方々も多くおられます。 
その方々は、おそらく普通に遺体を前にしての葬儀をあげることがいかに幸せなことかを痛感しておられるのではないでしょうか。
その方々も、慰霊祭や精霊流しで故人を偲ばれ、ご冥福を祈られました。
その方々は、故人の遺体はなくとも心の中で葬儀を行った方々だと思います。
「葬式は、要らない」と言った人は、「墓は、造らない」とも「人はひとりで死ぬ」とも言いました。
さらに、「生きている人が死んでる人に縛られるのって、おかしいと思いませんか?」と某週刊誌の取材に対して答えています。
わたしは、その人にぜひ次の質問をしたいです。
「では、『お盆は、要らない』ですか?」と。
2011.9.1