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一条真也
「被災地の月〜すべての人が帰るふるさと」

 

こんにちは、一条真也です。
いま、この原稿を仙台のホテルで書いています。
今日は東北の三陸海岸沿いの被災地を回ってきました。
本当は5月に訪れるはずだったのですが、わたしが足を骨折したために被災地訪問が大幅に遅れてしまったのです。
2011年3月11日は、日本人にとって決して忘れることのできない日になりました。 三陸沖の海底で起こった巨大な地震は、信じられないほどの高さの大津波を引き起こし、東北から関東にかけての太平洋岸の海沿いの街や村々に壊滅的な被害をもたらしました。その被害は、福島の第一原子力発電所の事故を引き起こし、いまだ現在進行形の大災害は続いています。
大量死の光景は、仏教でいう「末法」やキリスト教でいう「終末」のイメージそのものでした。
この国に残る記録の上では、これまでマグニチュード9を超す地震は存在していませんでした。地震と津波にそなえて作られていたさまざまな設備施設のための想定をはるかに上回り、日本に未曾有の損害をもたらしました。じつに、日本列島そのものが歪んで2メートル半も東に押しやられたそうです。
わたしは、今も海の底に眠る犠牲者の御霊に対して心からの祈りを捧げるとともに、「ぜひ、祖霊という神となって、次に津波が来たら子孫をお守り下さい」との願いを込め、次の歌を詠みました。
「願はくば海に眠れる御霊らよ 神の心で子孫をまもれ」
のどかなイメージの岩手県の一関から宮城県の気仙沼に近づくにつれ、周囲の風景が一変しました。
いたるところ建物が崩壊しており、ガレキだらけです。
きわめつけは陸上に漂着した船で、まるで宇宙戦艦ヤマトのような異様な光景に慄然としました。
それから、気仙沼から南三陸へ向いました。
途中で、三陸線の鉄道線路がブツッと切れていました。
わたしは、多くの人命を奪った三陸の海をしばらく眺めました。
南三陸町は根こそぎ津波にやられており、一面が廃墟という有様でした。
そんな中に、かの防災対策庁舎がありました。津波が来たとき、最後までマイクで非難を住人に呼びかけ続け、自らは犠牲となってしまった女性職員がいた庁舎です。
ここは建物の廃墟の前に祭壇が設えられ、花や飲み物やお菓子などが置かれていました。
そして、多くの人々がこの場所を訪れていました。それにしても、見渡す限り一面が廃墟です。
この場所のみならず、東北一帯で多くの人が亡くなりました。
大地震と大津波で、3・11以降の東北はまさに「黄泉の国」となりました。
黄泉の国とは『古事記』に出てくる死後の世界で、いわゆる「あの世」です。
古代、「あの世」と「この世」は自由に行き来できたと神話ではされています。
それが日本では、7世紀頃にできなくなりました。
それまで「あの世」に通じる通路はいたる所にあったようですが、イザナギの愚かな行為によってその通路が断ち切られてしまいました。
イザナギが亡くなった愛妻イザナミを追って黄泉の国に行きました。
そこまでは別に構わないのですが、彼は黄泉の国で見た妻の醜い姿に恐れをなして、逃げ帰ってきたのです。イザナギの心ない裏切りによって、あの世とこの世をつなぐ通路だったヨモツヒラサカは1000人で押しても動かない巨石でふさがれました。
以上が『古事記』で語られている神話ですが、このたびのマグニチュード9の巨大地震は時間と空間を歪めてヨモツヒラサカの巨石を動かし、黄泉の国を再び現出させてしまったのではないか。
そのような妄想さえ抱かせる大災害でした。
わたしは、「東北でヨモツヒラサカが再び通じた3・11をけっして忘れず、生存者は命が続く限りおぼえておこう」という願いを込め、数珠を持って次のような短歌を詠みました。
「みちのくの よもつひらさか開けたる あの日忘るな命尽くまで」
防災対策庁舎の横には、グニャリと曲がった自動車がありました。
まるで、サルバドール・ダリの描いた熱で曲がった時計の絵のような光景です。
そんなシュールな絵をながめながら、わたしは目に映る世界が現実であることを確認していました。
見ると、「チリ地震の津波水位」を示した看板が倒壊しており、非常に切なかったです。
さらに、南三陸から石巻に向いました。
まず、巨大なクジラ大和煮の缶詰が地上に転がっているのに度肝を抜かれました。
缶詰工場の巨大オブジェが津波で流されてきたのです。
その近くには、おびただしいガレキの山が延々と続いていました。
石巻といえば、大好きな漫画家である石ノ森章太郎の「萬画館」があります。訪れてみると、もちろん閉館でしたが、「再開して」とか「がんばれ、石巻」とかたくさんの寄せ書きが扉に書かれていました。
一番大きな「復興!」という文字は、俳優の藤岡弘さんのものでした。
言わずとしれた仮面ライダー1号の本郷猛を演じた役者さんです。
萬画館の前には教会がありましたが、これも津波でボロボロになっていました。
ふと空を見上げると、月が上っていました。
それから、土葬が行われた公営地に向いました。
わたしが想像していたよりも、ずっと街中にあったので驚きました。
「撮影禁止 石巻市」の看板がいくつも掲げられていました。
おそらく、無神経に鎮魂の土地をカメラに収めようとする輩が後を絶たなかったのでしょう。
当初、2年後の三回忌を目安に掘り起こして火葬にするとされていましたが、火葬場などの復旧を受けて、多くの遺体はほぼ掘り起こされて火葬され直したようです。
ただし、一部の身元不明遺体はそのまま土葬の状態です。
そこには、「火葬して遺骨を手元に置いておきたい」「先祖と同じ墓に入れてあげたい」「変わり果てた姿をそのままにして土葬しておくのはしのびない」など、さまざまな考えがあるでしょうが、「人並みに火葬にしてあげたい」という遺族の強い想いは共通しています。
ひっそりと静まりかえる土葬の地の上空にも月がありました。
それを見ていると、月こそ「あの世」であるという想いが強くなりました。
世界中の古代人たちは、人間が自然の一部であり、かつ宇宙の一部であるという感覚とともに生きていました。そして、死後への幸福なロマンを持っていました。その象徴が月です。
彼らは、月を死後の魂のおもむくところと考えました。
月は、魂の再生の中継点と考えられてきたのです。
多くの民族の神話と儀礼において、月は死、もしくは魂の再生と関わっています。
規則的に満ち欠けを繰り返す月が、死と再生のシンボルとされたことはきわめて自然でしょう。
夕暮れ時の石巻の上空にかかる月を見上げながら、わたしは次の歌を詠みました。
「天仰ぎ あの世とぞ思ふ望月は すべての人が帰るふるさと」
2011.9.15