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一条真也
「新藤兼人監督の通夜〜生きているかぎり生きぬきたい」

 

こんにちは、一条真也です。
5月29日、映画監督の新藤兼人氏が老衰のため亡くなりました。
100歳でした。 明治、大正、昭和、平成と4つの時代を生き抜いた国内最高齢の監督でした。
2011年に作られた映画「一枚のハガキ」が、新藤監督の遺作となりました。
新藤監督は、「一枚のハガキ」を入れて48本の監督作、233本のシナリオを生み出しました。 じつに78年間の長きにわたって映画界に身を置き、多くの名作を世の中に送り出した新藤監督。
ずっと、「反戦」や「人間愛」のメッセージを、ぶれることなく訴え続けてきました。 自身も二等兵として終戦を迎えた新藤監督は、戦争を心から憎んでいました。
44年、呉海兵団に掃除兵として召集。くじ引きで戦地に赴く者が選ばれたとか。100人の兵隊の中で生き残ったのは新藤監督を含め、たったの6人でした。「一枚のハガキ」では、「94人のためにこの映画を作った。私の仕事はこれで終わりです」と感慨深げに話していました。 「一枚のハガキ」は、天皇・皇后両陛下も御覧になりました。
わたしは、このような反戦映画を堂々と鑑賞される両陛下を心から尊敬します。
そして、そのときの新藤監督の心中を想像しただけで目頭が熱くなってきます。
なお、同作品は、第81回米国アカデミー賞の外国語映画賞部門に日本代表として出品され、第23回東京国際映画祭の審査員特別賞を受賞しています。
わたしは、もともと新藤映画の大ファンでした。特に、1960年に作られた「裸の島」には大きな衝撃を受け、拙著『葬式は必要!』(双葉新書)にも紹介させていただきました。 映画プロデューサーで、新藤兼人監督の次男である新藤次郎さんと昨年の2月にお会いしました。そのとき、「裸の島」製作の裏話をいろいろお聞きしました。
あの映画に出演していたプロの役者は乙羽信子、殿山泰司の2人だけで、子どもの兄弟も、僧侶も教師も、みんな現地の人たちだったそうです。
そして、観客の感涙を誘った兄弟役の2人も、すでに亡くなられているそうです。 映画の中で病死した兄役の人は、つい最近まで存命で、広島の映画記念館の館長をされていたとか。その他にも、いろいろな貴重なエピソードをお聞きしました。
「裸の島」は、今でも世界中で上映されており、絶賛を受けているそうです。
この映画は全篇セリフなし、映像と音楽のみでストーリーを進めていくという画期的な実験作品です。資金はすべて新藤監督の手出し、スタッフは10名あまり、そして瀬戸内海の宿弥島でのオールロケという試みでした。日本の配給会社からは完全に無視され、全国の貸ホールや公民館、名画座などで細々と公開されました。しかし、その後、思わぬ展開を迎えます。
なんと、公開の翌年にモスクワ国際映画祭でグランプリを受賞するのです。
それ以来、各国の業者が殺到し、結局は64カ国に配給されたのでした。
なんだか昨年アカデミー外国語映画賞を受賞した「おくりびと」を連想させますね。 ところが、「裸の島」と「おくりびと」の共通点は国際的な評価を受けたことだけではありませんでした。
「裸の島」には、粗末で悲しくて、そして豊かな葬式が登場します。
貧しい島の貧しい夫婦の間に生まれた少年の葬式です。少年は、両親、弟、先生、同級生という、彼が愛した、また愛された、多くの"おくりびと"を得て、あの世に旅立って行きました。
そう、1960年に製作された「裸の島」は「おくりびと」に先立つこと48年ですが、両作品はともに、人間にとって葬式が必要であることを粛然と示す映画だったのです。
あの名作「裸の島」を作った新藤兼人監督が亡くなったのです。 最期を看取ったのは次郎さんのお嬢さんで、付きっきりで面倒を見ていた新藤風監督でした。
兼人監督は、穏やかに息を引き取ったそうです。次郎さんも、会見で「苦しまずに天寿をまっとうしたかと思います」と父の死を静かに受け入れておられました。
4月22日に兼人監督の100歳の誕生パーティーが開かれました。
そこでは体調が良かったそうですが、その後徐々に悪化しました。最近の兼人監督は、ほとんど寝たきりでした。それでも、次郎さんによれば、夢の中で映画を撮影していたそうです。
「アメリカで撮影していたみたいで『ここは英語と日本語で撮るよ』みたいに寝言でいっていたそうです」と、息子である次郎さんも、その映画への情熱に驚かされたとか。
その新藤監督の通夜が、6月2日に東京は芝の増上寺で営まれました。
わたしも、北九州から駆けつけて参列しました。葬儀の必要性や重要性を素晴らしい映像で示して下さった新藤監督ご自身のお通夜ということで、わたしは色々なことを考えました。 多くの映画人やファンなど、1000人を超える方々が来られていました。
祭壇は、胡蝶蘭とカサブランカをメインにした素晴らしいものでした。
白い花々の中央で、新藤監督の遺影が飾られていました。最前列の席には、俳優の津川雅彦さんが呆然とした表情で座っておられたのが印象的でした。後から知ったのですが、津川さんは「お別れの言葉」を読まれたそうです。
本当は翌日の葬儀・告別式にも参列したかったのですが、その日は板橋で「グリーフケア」の講演を行う予定が入っていたので、通夜のみ参列しました。
わたしは、合掌しながら、「新藤監督、お疲れさまでした。あちらでは、乙羽信子さんと幸せに暮らしてください」と心の中でつぶやきました。
そして、喪主である新藤次郎さんに御挨拶させていただきました。
会葬礼状に添えられたカードには、「生きているかぎり生きぬきたい」という故人の直筆メッセージが記されていました。故人の遺骨は、鎌倉霊園にある新藤家の墓に納められるそうです。
日本映画界の最後の巨匠・新藤監督の御冥福をお祈りいたします。合掌。
2012.6.15