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一条真也
「グリーフケアとしての怪談〜慰霊と鎮魂の文学」

 

こんにちは、一条真也です。
梅雨です。雨がよく降ります。
九州では、記録的な豪雨もありました。 雨といえば、わたしにとっては「死」のイメージと分かちがたく結びついています。
雨がしとしと降る日などに自宅にいると、わたしは自然と死者のことを考えてしまいます。
かの孔子は、儒教という宗教を開きました。
儒教の「儒」という字は「濡」に似ていますが、これも語源は同じです。ともに乾いたものに潤いを与えるという意味があります。すなわち、「濡」とは乾いた土地に水を与えること、「儒」とは乾いた人心に思いやりを与えることなのです。
孔子の母親は雨乞いと葬儀を司るシャーマンだったとされています。雨を降らすことも、葬儀をあげることも同じことだったのですね。
じつは、次回作として『グリーフケアとしての怪談』(仮題)の執筆を出版社から依頼されているため、最近は古今東西の怪談論の類に目を通していました。そして、怪談には必ずと言ってよいほど、死者の霊すなわち「幽霊」が登場しますので、幽霊に関する文献をいろいろと読んできました。
わたしは、「幽霊は実在するのか、しないのか」といった二元的な議論よりも、「なぜ、人間は幽霊を見るのか」とか「幽霊とは何か」といったテーマに関心があります。あまり「幽霊に関心がある」などと言うと、冠婚葬祭会社の社長としてイメージ的に良くないのではと思った時期もありましたが、最近では「慰霊」「鎮魂」あるいは「グリーフケア」というコンセプトを前にして、怪談も幽霊も、さらには葬儀も、すべては生者と死者とのコミュニケーションの問題としてトータルに考えることができると思っています。
あえて誤解を怖れずに言うならば、今後の葬儀演出を考えた場合、「幽霊づくり」というテーマが立ち上がってきます。もっとも、その「幽霊」とは恐怖の対象ではありません。生者にとって優しく、愛しく、なつかしい死者としての「優霊」です。かつて、わたしは『ロマンティック・デス~月を見よ、死を想え』(幻冬舎文庫)において、ホログラフィーを使った「幽霊づくり」を提唱したことがありました。芥川賞作家で僧侶の玄侑宗久さんが、「月落ちて天を離れず」という素晴らしい書評を書いて下さいました。
玄侑さんは、そこでわたしが提唱する「幽霊づくり」にも触れておられます。
しかし、「幽霊づくり」というのは、けっして奇抜なアイデアではありません。幽霊が登場する怪談芝居だって、心霊写真だって、立派な「幽霊づくり」です。死者が撮影されるという「心霊写真」は、もともと死別の悲しみを癒すグリーフケア・メディアとして誕生したという経緯があります。
すでに死亡している人物が登場する写真や映像は、すべて死者の生前の姿を生者に提供するという意味で「幽霊づくり」なのではないでしょうか。
葬儀の場面では「遺影」として故人の生前の写真が使われています。これなど、いずれ動画での遺影が主流になるかもしれません。最近読んだ怪談関連書の中で、とびきり面白かった本があります。
『なぜ怪談は百年ごとに流行るのか』東雅夫著(学研新書)という本です。
著者は、1958年生まれの「怪談スペシャリスト」として知られます。怪談専門誌「幽」の編集長であり、わたしが一時所属していた早稲田大学幻想文学会の先輩でもあります。
同書では、メインテーマの「怪談百年周期説」よりも、「怪談とは何か」を論じた部分に深く共感しました。日本文化におけるさまざまな史実を踏まえて、東氏は次のように述べています。
「要するに、われわれ日本人は、怪異や天変地異を筆録し、語り演じ舞い、あるいは読者や観客の立場で享受するという行為によって、非業の死者たちの物語を畏怖の念とともに共有し、それらをあまねく世に広めることで慰霊や鎮魂の手向けとなすという営為を、営々と続けてきたのであった」 怪談は夏に好まれますが、夏といえばお盆です。東氏は「仏教における回向の考え方と同じく、死者を忘れないこと、覚えていること――これこそが、怪談が死者に手向ける慰霊と鎮魂の営為であるということの要諦なのだ」と述べます。そう、怪談の本質とは「慰霊と鎮魂の文学」なのです。
同書の最後に、東氏は「ガレキの下から人の声」という奇妙なニュースを紹介しています。
これは、東日本大震災から16日が経過した2011年3月27日の朝、石巻市の津波被災地で「ガレキの下から人の声が聞こえる」という情報が警察に寄せられ、自衛隊などによって大がかりな捜索が行われたというものでした。しかし100人態勢で捜索したにもかかわらず、結局のところ生存者も、遺体も、何も見つかりませんでした。
東氏は、「これを怪談として捉えたら」と考えて、次のように述べています。
「大がかりな捜索がおこなわれたこと、多くの人たちが必死に探し求めてくれたこと。それ自体が、せめてもの供養に、手向けになったとは考えられないだろうか。現実には何もできない、してあげられない、だからこそ、せめて語り伝える物語の中で何とかしたい。何かをなしたい。そこにこそ、怪談という行為の原点があり、この世において果たすべき役割があるのだと、私には思えてならないのである」
そう、「慰霊と鎮魂の文学」としての怪談とは、残された人々の混乱した心を整理して、死別した悲しみを癒すという「グリーフケア文学」でもあるのです。
東日本大震災以来、被災地では幽霊の目撃談が相次いでいるそうです。
たとえば、津波で多くの犠牲者を出した場所でタクシーの運転手が幽霊を乗車させたとか、深夜に三陸の海の上を無数の人間が歩いていたとかの噂が、津波の後に激増したというのです。
わたしは、被災地で霊的な現象が起きているというよりも、人間とは「幽霊を見るサル」なのではないかと思います。故人への思い、無念さが「幽霊」を作り出しているのではないでしょうか。
そして、幽霊の噂というのも一種のグリーフケアなのでしょう。夢枕・心霊写真・降霊会といったものも、グリーフケアにつながります。恐山のイタコや沖縄のユタも、まさにグリーフケア文化そのものです。そして、「怪談」こそは古代から存在するグリーフケアとしての文化装置ではないかと思います。
怪談とは、物語に力で死者の霊を慰め、魂を鎮め、死別の悲しみを癒すこと。
ならば、葬儀もまったく同じ機能を持っていることに気づきます。
葬儀で、そして怪談で、人類は物語によって「こころ」を守ってきたのかもしれません。
2012.7.15